22

 ***


 どの感覚が最初に現実に帰ったのか判然としない。コンクリートを踏んだ足裏か、あるいは小ぢんまりした駐車場の光景を認識した目か。ともかくも翡翠と紫音は揃って、もといた場所に立っているのだった。

「戻ったね」

「戻った」

 ずいぶんと時間が経過しているような気がした。腕時計を覗いてみると、すでに明け方に近かった。

 紫音とともに、辿ってきた道を引き返した。かしらを巡らせながら、そういえば公園の一角だったのだと思い出す。得体の知れない怪物との戦いの舞台としては、あまりに身近な場所でありすぎた。

「仕方ないよ、奴らのほうが忍び入ってくるんだから。どんな場所だって、ほんの小さな暗闇さえあれば、奴らは入り込めるんだもん」

 そう説明しながら、紫音は翡翠を公園の高台へと導いた。階段を上がっていくうちに、あたりが少しずつ明るんでくるのが分かった。

 隣り合い、早朝の街を見下ろした。薄い雲の向こう側から届く仄かな薔薇色の陽光と、窓明かり。こうしたなんでもない、しかし特別な景色を自分は見たかったのだと思い、紫音に感謝を告げようと横を向いた。

 息を詰めた。紫音の後方に、沙由が立っているのを見た。

 むろん現実の存在ではない。体の周囲に金色の粒子を纏い、幽かに揺らぎながら、こちらをじっと見つめている。七歳でこの世を去った妹の幽霊。

 紫音が小さく微笑みながら後退し、場所を空けた。彼女はすべて承知だったのだと悟った。

 かつてとまったく同じように、沙由は瞳を輝かせて駆け寄ってきた。飛んでくるでも、滑ってくるでもない。ぱたぱたという足音を耳朶に甦らせながら、翡翠は屈みこんで両腕を広げた。

 抱き留めた。体の感触と体温が伝う。伝うに決まっている――これは沙由だ。

「ちょっとくすぐったい」と懐かしすぎた声が言った。彼女は翡翠の肩に埋めた顔を離し、気恥ずかしそうな笑みを覗かせながら、「ひいちゃん」

 いっそう強く抱きしめ、沙由、と耳元で名を呼んでから、翡翠はようやく妹を解放した。「ごめんね、くすぐったいね」

 鼻声になった。視界のなかで、沙由の姿が滲む。

「ひいちゃんのこと、見てたよ」

「本当?」

「うん」沙由はまた微笑んで、「ずっと」

「全部?」

「たぶん」

「心配かけて――駄目だね」

 沙由はかぶりを振り、そっと手を差し出しながら、

「誕生日プレゼント、持ってきた。遅くなったけど、いま渡すね」

 広げた掌のうえに、磨き上げられた緑色の小石が乗っていた。朝の陽射しを受け、穏やかな光を放っている。

「翡翠って、緑の宝石のことだって教えてくれたでしょう。本物は買えないけど――綺麗なのを探したの」

 握り込み、繰り返し頷いて、「これがいちばん綺麗だよ。ずっと、ずっと持ってる。私の宝物にする」

「来年も再来年も、お婆ちゃんになっても?」

「もちろん。いつまでも大切にするよ」

「よかった」沙由は満ち足りた声音で言い、それから上を振り仰いで、「私、行かなきゃ」

 もう一度だけと思い、慌てて抱き寄せようとしたけれど、妹の姿はすでに金色の光に変わって、空へと飛び去っていくところだった。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 光が消え、声の残響も消えた。なんの変哲もない高台の景色のなかに取り残された翡翠の肩に、後方からそっと紫音が触れる。振り返り、

「沙由、行ったよ」

「そっか」

 翡翠は頷き、右手の硬い感触を確かめてから、「でも、これでずっと一緒」

 反対の手を伸ばし、紫音の掌を握った。彼女も握り返してきた。大丈夫だよ、と紫音が囁くように言った。

「大丈夫だよ、翡翠」

 朝焼けがふたりを包んだ。早朝には連絡すると言っていたから、じきに母から電話があるだろうと思った。あるいは藤代氏本人からかもしれない。どちらでもいい。

「帰ろう」今度は翡翠のほうから告げ、紫音の手を引いた。ふたり、ゆっくりと階段へと向かった。

 歩きながら、大丈夫、と唇のなかで繰り返した。顔を上げ、目を細める。朝の光はもう、こんなにも眩しい。

 私たちは、もう大丈夫。大丈夫だよ、沙由。

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How Can I Make It Through The Night? 下村アンダーソン @simonmoulin

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