21

 まったく唐突に、翡翠、という声が耳に飛び込んできた。雷に打たれたような衝撃に見舞われた。激痛とともに視界が傾いだ。

 目を瞬かせた。トンネルも、車も、沙由の姿さえも、もうそこにはなかった。

「馬鹿。もう呑まれないって約束したでしょう」

 紫音の顔が眼前に生じた。涙に頬を濡らし、表情を歪ませている。

 応じる前に強く頬を張られた。先刻の衝撃はこれだったのかと理解し、一拍遅れて彼女の言う「約束」の意味を思い出した。そうだ自分たちは一緒に――。

「ごめん」告げると、同時に涙が滲んだ。「私が弱かった」

「いいよ。私も油断した。一瞬でも離れるべきじゃなかったね」

 紫音の手が、再び翡翠の掌を掴む。強く握りしめられた。

 戻ってきたと思った。この悪夢のなかでただひとつの真実。命綱であり道標でもある感触。

「ここ、どこかな」

「さあ。でも幻覚じゃ引き裂けないって、やっと理解したんじゃない?」

 果てのない暗黒のなかに、翡翠と紫音はいる。ちょうど幻の沙由の部屋で見た、窓の外の景色に似ていた。なにもない、ただ濃密な闇が満ちているのみの場所。

 どこでもいいか、と翡翠は笑った。「今度こそ終わりにしよう、ふたりで」

 紫音の左手がまっすぐに伸びた。その指差した先の空間が、ほんのわずかに揺らめいているのが分かる。痩せこけ、眼下の落ち窪んだ女の顔が、そこには隠れている。

「もう逃がさない」と紫音が言う。「私たちは、おまえに支配されない」

「私たちは、もうおまえに支配されない」

 手を繋ぎ合わせたまま、闇に紛れた女に向けて告げた。目を逸らさずに見つめつづけた。

 ここに辿り着くまで、長い長い時間を要した。深淵に巣食うおまえを、直視できるようになるまで。怖れも、後悔も、憎しみも、すべてを引き連れたまま、それでももう一度、きっと悲しみと徒労ばかりであろう人生ともう一度、対峙しようという意思が芽生えるまで。

 ますます強く掌に力を込めた。握り込みすぎて、ひとつに溶け合ってしまうのではないかと思った。しかし紫音もまた、力を緩めようとはしなかった。

 私たち残された者はそうして、生き延びていくほかないから。

 声なき悲鳴が闇を満たした。影の女の姿が、少しずつ露わになる。苦しげに身をよじり、這いずって、やがて一転で静止した。揮発するように、徐々に形を失っていく。

 そして消滅した。風に吹かれるように霧散し、なんの痕跡も残さなかった。

 最後までそれを見届けると、途端に力が抜けた。影の女がいたはずの場所に、白く闇を切り取ったような扉が浮かんでいるのが、かろうじて目に入る。

「帰ろう」耳元で紫音が囁いた。ふたり並んで、光のほうへと駆け出した。

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