20
明滅――オレンジと黒の繰り返しが意識に割り込んできて、目が覚めた。光と影がゆっくりと流れて、後方へと流れ去っていく。振動が体に伝う。
翡翠は運転席にいる。お馴染みの軽自動車だ。エアコンが低い異音とともに吐き出す風。左手でその向きを変えようとして、はっとした。心臓を鷲掴みにされた。
隣に少女が座っていた。懐かしくて堪らない横顔。眠っているのか、首を小さく傾けて、静かに行儀よく――。
沙由、と発しようとしたが、声にならなかった。唇が震える。沙由。
揺り起こして言葉を交わしたい欲求を抑え込んだまま、翡翠はハンドルを握りつづけた。これは沙由の見ている夢で、自分はその住人にすぎないのかもしれないと思った。彼女が目覚めれば、途端に自分は消え失せてしまうのではないか、と。
そうはなってほしくなかった。このドライヴが永遠に続くことを願った。
ねえ、沙由。お姉ちゃんと一緒にいよう。これからも、ずっと。
そういえば自分たちはいまどこを走っているのだろうと思い、フロントグラスの向こう側に広がる光景に意識を戻して叫び出しかけた。トンネルの内部。
すぐさまブレーキを踏み、方向を転換し、ここから出なければならないと気が付いたが、体がいっさい言うことを聞かなかった。右足が貼りついたかのようにアクセルから離れない。ハンドルを回転させることもできない。
ただ同じ速度で進んでいく。定められた結末に向けて。
畜生、と吐息を洩らした。何度となくこの場面を振り返り、やり直せたならと夢想しつづけてきたというのに。今度こそ間違わない、無事に連れ帰ると決めたのに。またしても私は、沙由を――。
そうだよ、と意識のどこかで声が囁いた。おまえはどうあっても、この場所へと妹を連れてくるのだ。自らの意思で妹を運び、深淵へと突き落とすのだ。すべてを知っていながら、おまえは抗えない。おまえはそれを望んでいるのだから。
嘘だ、とかぶりを振って打ち消そうとしたが、声は失せなかった。おまえは妹の終わりを望んでいる。自らの手で幕を引くことを望んでいる。それがおまえにとって唯一の、妹を自分のものにする方法だから。
嘘だ嘘だ嘘だ、とますます激しく否定を試みる。そんな忌まわしい欲求を、自分が抱えているはずはない。沙由は沙由、独立したひとつの人格だ。自分の所有物では断じてない。彼女を占有しようとしたことなど、一度としてない。
ヘッドライトの明かりのなかに、黒々たる影が立っているのが見える。行き過ぎるか、いっそ真正面から突っ込んでやろうと思うのに、不思議なほど自然と足が動いて、ブレーキを踏んでしまう。
軋みと衝撃。
撥ねてはいない。傷ひとつ負わせていない。頭では厭というほど理解しているのに、やはり行動は変わらない。車が停止する。ドアを開ける。
「大丈夫ですか、すみません、大丈夫ですか」
唇が勝手に動いて、そう声を発する。俯いた影の女のもとに駆け寄っていく。こいつが、こいつのせいで、私は……脳裡を激情が渦巻くが、なんの役にも立たない。すでに確定している過去を、ただやり直しているに過ぎない。
沙由が下りてくる。駄目、すぐ車に――と警告するも、間に合わないことは誰よりもよく分かっている。女の手招き。目から光を失った妹が、ふらふらと女の腕のなかへと向かっていく。
抱擁。
畜生、畜生、と叫び声をあげるが、むろん女の腕が緩むことはない。万力のように沙由を締め上げ、呼吸を奪い、体じゅうの骨という骨を軋ませる。あ、あ、という苦しげな嗚咽と、心の底から満足したような影の女の横顔。
前回とゆいいつ違ったのは、自分の意識がいつまでも残りつづけていることだ。もうとっくに視界が暗転していたはずなのに、眼前の光景も、音も、まるで失せる気配がない。それでいて体はまったく指示に従わない。目を閉じることさえできない。
ああ、そうか、と思った。影の女は沙由の死を見せつけるために、わざわざ自分をここへ呼び寄せたのだ。最初から万にひとつの可能性も、自分にはなかった。妹を見殺しにする苦悶を永遠に味わうためだけに、私はここにいるのだ。いつまでも、繰り返し、決して逃れえない、凄惨な悪夢。
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