19

 ***


 滅茶苦茶に荒れ果てているだろうと踏んでいたが、予想に反して部屋は綺麗なままだった。歪な落書きも、汚れもない。沙由が過ごしていた空間が、忠実に再現されている。

 慎重に周囲を見渡したが、影の女の姿はない。その気配も感じられない。

「ここしかありえないよね?」と紫音が眉を顰める。「どういうつもりだろ」

「不意打ちする気かも。どこから現れるか分からない」

 言いながら、カーテンに手をかけてゆっくりと引き開けた。窓の外は濃密な闇に満たされているのみである。夜の闇というより、虚無あるいは深淵といった言葉で呼ぶべきもののように思えた。この部屋の外側にはもう、なにもないのだ。

 紫音は天井を見上げている。四隅を順番に眺め渡してから、いたらどうしようかと思った、と言って笑った。壁際のベッドに腰を下ろしながら、

「ここで座ってゲームとかやってたわけ?」

「そうだね。だいたいいつも」

「まだあるかな。プレステ?」

「有名なハードはたいがい。今はそんなこと気にしてる場合じゃないと思うけど」

「そうでもないかも。ここが沙由ちゃんの記憶や心理を投影した空間なら」

 一理あると思い、テレビ台を覗いた。知っているとおりの位置に知っているとおりのゲーム機が置かれていた。スイッチに触れてみたが特別な反応はなかった。テレビも点かない。

「なんだ」と紫音が少し残念そうに発する。「なにか映りこむかと思った」

 テレビの前を離れ、なんとはなしに学習机の前に向かった。紫音の姿が陰になって見えなくなる。

 椅子を引いた。棚には小学校一年生向けの教科書とノートが整然と並び、余ったスペースには小さなフィギュアや縫いぐるみが飾ってある。これもまた記憶どおりだ。

「紫音。あいつのこと、ちゃんと掴まえて閉じ込めたんだよね?」

「それは間違いない。逃げてもいないはず」

 ならばここまで来て、相手が戦いを放棄することはありえない。なにを考えている? 我慢比べに持ち込む気か。

 ノートを抜き出した。適当に選んで適当な頁を開いたつもりだったが、目に飛び込んできた文字にどきりとした。翡翠、翡翠、翡翠、翡翠……とただ、自分の名前だけが見開きいっぱいに書きつけられている。

 沙由の練習帳だ。出会ってすぐに名前の漢字を教えた。こうして懸命に覚えたのだと思うと感慨深かった。難しかったろうに。

 眺めているうちに、文字が生き物のように蠢きはじめた。目を瞬かせたが動きは止まなかった。画数が多い字だからか、なんだか紙のうえを蟲が這っているように見えた。

 寄り集まって潰れた。べっとりとした染みに変わった。そうかと思いきや、よくよく目を凝らしてみれば新しい文章が浮かび上がっているのだった。

 後ろ、と唇だけでなぞり、その言葉どおりに振り返った。クローゼットの扉が見える。再び視線を落とせば、ノートの文字は――開けろ。

 そうか、あのなかなのか、と翡翠は得心した。かくれんぼだ。クローゼットで息を潜めて、こちらの様子を窺っているのだ。

 いま見つけるよ、沙由。

 引き寄せられるようにクローゼットに取りつき、そっとその扉を開けた。内側に満たされた暗がりを覗き込んだ。沙由はここに――沙由。

 全身の関節を複雑に折りたたんだ胎児のような姿勢で、女がそこに蹲っていた。押し込まれていたと形容するほうが適当かもしれない。人間ではありえない捻じ曲がり方だ。

 それでいて微動だにしない。体が硬直しているのかもしれなかった。だとすればこの女は屍なのかと思い、そっと手を伸べて頬に触れた。ひどく冷たかった。

 ぴくり、と不意に女が動いた。首だけがぐるりと回転してこちらを見据えた。黒い洞のような眼窩、白く塗りこめたような肌。酷薄な笑み。

 また会った。また。ここで。こいつはそうだ私たちの――。

 宿敵。

 翡翠、翡翠、と自分を呼ぶ声がどこか遠くから聞こえた。

 影が長々とした、腕のような指のような形状を成して体に滑り込んでくるのを意識した。どこをどう通ってどこに至ろうとしているのかさっぱり分からない。ただ自分の内側が黒々としたなにかに支配されていくのを感じるばかりだ。

 私は――影。

 おかえり、と誰かが頭蓋の内側で囁いた。視界が黒く塗りこめられていくのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る