第5話 獣の勝ちは勝利ではない

 先人の書物に曰く「日本の武道においては単に獣の如くにどんな手を使って勝ったとしても本当の勝利とはならかった」と。

 獣道はいずれ人に均(なら)されて消失する。獣の道とは永遠の定理にはなり得ない暫定コマンドのようなものだ。暫定コマンドだからまぁ、ある程度は使えるし、というくらいの簡便なツールでしかない。


 武術ならば何をしても良い、と解釈される事が度々あるが、武術であっても兵法として考えるのであれば、技を術として用いる際に活かす方法を常に模索しなければ存続できなくなる。それ故にその殺しの技の運用に道を見出して活人術として遺そうとする波があり、そうして形成されてきたものをかつて嘉納治五郎先生は「武道」と名付けられた。


 武を活かすのが道であるとするなれば、例えば興行における試合競技の場であったとしても安易に手段を選ばない勝ちを得ようとするのは愚策であると言える。そのようなことを繰り返せば、いずれにせよ支持を得られなくなるだろう。


 例え試合に負けても今己が習得せんが為に打ち込んでいる道を文字通り試し合う姿勢あらば必ず支持されるというもので、それこそが兵法....つまり平法なのだ。


 戦国時代ですら、支持の得られない勝ちを収めたものは結果的に毒殺されたり島流しにあったりした。つまり獣の勝ち=外道は「負け」なのだ。外道でもともかく勝った!と言い張る部下には人数は預けられない。そんなのをいつまでも大名として任せることは出来ないし、なんせ民衆が協力しなくなる。


 人が慕って連なっているのか、祀り上げられて暫定的供物となっているだけなのかの判別はカンタンで明解だ。仕事を独り占めせず、みんなに振ってくれようとしているか否かで、遠くからでも下の立場からでも判別はたやすい。己の能力に皆が従っていると思いきや、単なる皆の都合で偶像として利用されている中身空っぽの暫定的アイコン.....いずれは何をやっても勝ちは勝ち!という別の新たな人間に容易く取って替わるだろう。


 卑怯な勝ちが台頭すれば収穫は配分など望めず、国は縮小に向かい、技術や研鑽が社会的野心に昇華することはいつまで経っても望めない。

 

 


 

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続・モノノフ雑記 kanemitsu @kyouyu

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