第26話 鬼の記憶

 あれは、今よりも高い建物が少なかった頃の、小さな家がひしめき合う日の当たらないいつも薄暗い部屋だった。

「また来たのかよ」

 泣きはらした目をこすり、少年はそれを隠すようにそっぽを向いた。

「別にいいじゃない」

 紫月鬼が、にっこりと笑い返す。

「ほんと、変なやつ」

 彼は上半身裸の、まだ小さな体を布団に潜り込ませると頭まで覆い被った。

 窓を開けていても、真夏の空気が腐敗した食べ物やほこりの匂いを漂わせている。いつ来てもそれだけはかわらない。

 ずっと同じものが同じところにある。人の匂い、と言うものがあり、人の営み、というものが狭い空間を支配していた。


 紫月鬼は布団のそばに座り、丸くなった塊を見つめた。時間というものが人を成長させていくと言うけれど、彼の姿は会うたびに小さく細くなっていくように見えた。

 鬼と人の年齢は同じものではないけれど、彼とは背格好が同じ位であったし、彼の反応を見て、自分はきっと人のいう「大人」の姿ではないのだろうと紫月鬼は思っていた。

「ねぇ、前みたいに、何かして遊ばない?」

 最近は話しかけても、大抵無視される。

「俊之、聞いてる?」

「うるせえ!もう来るな、ばーか」

 俊之が布団の中から大きな声を出したので紫月鬼は、ふぅ、と立ち上がった。

 すると、まだ日が沈み始めたばかりなのに、バタンと激しい音がして、家の入り口からドスドスと威圧的な足音が響いてきた。途端に布団の中の俊之が体をこわばらせて硬くなっている様子が、見えなくてもわかる気がした。

「頼むから……もう来ないでくれよ」

 震えた俊之の声がかすかに届く。

 部屋になだれ込んできた男は、紫月鬼の目の前で、俊之を布団から引きずり出した。


「本当に鬼なの?」

 俊之は最初に会った時、目をくるくると丸く大きくさせて言った。

 その頃の彼は多くの邪気をまとっていて、体はもちろんひどく心を傷つけていた。それでも鬼の存在や紫月鬼の話を興味深く聞きながら、あまり言葉を発しなかった彼も次第に感情を表に出すようになり、いつからか自然と会話も増えていった。

 なにより不思議なのは邪気を払っても会うたび記憶を保っている事だった。今までそんな事は1度もなかった。

 時折見せる彼の涙と、次第に輝きを宿してゆく瞳。この時紫月鬼は初めて人の涙が美しいと思った。

 そして、時々公園や墓地で待ち合わせをしては、帰りたくないと言う敬之と遅くまで遊んでいた。いくつもの夜を2人で過ごしては、それが待ち遠しくなっていった。

 けれど、それは長くは続かなかった。


「お前の言っている事は、綺麗事なんだよ」

「どういう意味?」

「人は綺麗なままで生きていくなんてできない。いい人になんてなれやしない」

「俊之は、何も間違ってないよ」

「だったらどうしろって言うんだよ!悪い奴は死ねばいいのか?」

「そうじゃないわ」

「じゃあ何なんだよ」

「私がいつもそばにいるって言ったじゃない」

「……お前に何がわかるんだ」

「俊之?」

「いいから、出てけ!」

 俊之は近くに落ちていた何かを拾い、紫月鬼に向かって思い切り投げた。それは紫月鬼の体をすり抜け窓にぶつかると、どさっと落ちて散らばった。

「はっ……はは」

 俊之は力なく笑うと、なだれるようにその場に座り込んだ。

「鬼が人を、人が鬼を、傷つけることはできないの」

紫月鬼が言うと、

「お前に、人の痛みがわかるわけないよな」

 俊之のその時の目を、紫月鬼は忘れることができなかった。


「あ、叉羅鬼、またさぼってる」

 夕暮れの空の下、叉羅鬼は社の屋根の上で鳥と戯れていた。というより、寝転がっている周りに鳥たちが集まっているだけなのだけれど、ちょっかいを出しているのか、からかわれているのか、とにかく楽しそうに、ごろごろとしている。

「叉羅鬼、何してるの?」

「お、紫月鬼か」

 紫月鬼が舞い降りて叉羅鬼の脇に座り、そっと腕を伸ばすと、我先に飛び乗ろうと鳥たちが騒いだ。彼らと目を合わせ、奏でる美しい声に耳をすます。

 叉羅鬼は「よいしょ」と体を起こすと、わさわさと髪を掻いた。自分よりも少し長く人と関わっている叉羅鬼の体は、いわゆる「大人」に近い。そんな彼が人とうまくやっていけているのだろうか。

「叉羅鬼は人と話したことある?」

「ああ、楽しいぞ、面白い」

「ふうん……」

「かわいい姉妹がいてなぁ、オレのこと好き、だって」

「なにそれ」

「やっと笑うようになったんだよな、あいつ」

 叉羅鬼は何を話している時もいつも楽しそうにしているけれど、人との関係を本当に嬉しそうに話す。このくったくのない笑顔が人を惹きつけているのだろうか。

「ねぇ、人の記憶ってどうやって消すの?」

「邪気を払えば勝手に消えるだろ」

「でも覚えてる人もいるみたい」

「たしかにな。その姉妹もそうだった。オレにもよくわからないが、忘れたくない、という思いが強いからなんじゃないか?」

「その方が、人にとっても良いという事?」

「いや、その記憶がまた人を苦しめる」

 紫月鬼は、自分を睨むように見たあの日の俊之の目を思い出す。心の底から拒絶するような鋭く悲しい眼差しだった。

「だから忘れるまで払い続ける。時がくれば自然と見えなくなるだろうが、その前に消してやった方が人の為だからな」

「その姉妹はどうするの?」

「もちろん消すさ」

「でも叉羅鬼と会えるのを楽しみに待ってるんじゃない?」

「そうかもな、でもそれでいい」

「どうせ、人は忘れてしまうんだ」


 人々が寝静まった頃、紫月鬼は久しぶりに俊之の部屋を訪れてみた。来るなと言われてもやはり気になるし、叉羅鬼の言うように人にとってない方が良いという記憶をまだ消せていない。

 窓から覗くと、部屋に散乱していたものは相変わらずそのままで、隣の部屋の扉からは、うっすらと明かりが漏れている。俊之の父親はまだ起きているのだろう。それらも以前と何も変わっていないかのように見えた。けれど、部屋に入った瞬間、明らかに異様な気配が漂っていた。

 邪気だ。それもひどく濃い。とてもこの場にとどまっていられないほどだ。それでもなんとかいつも寝ている俊之の布団に紫月鬼は近づいた。

「と、俊之?」

 闇の中、布団にくるまった俊之を見て、紫月鬼は言葉を失くした。

 腫れ上がった顔、口元には乾いた血の跡。父親にされたことだと紫月鬼はすぐにわかった。それは、今までも何度か見てきたし、俊之の周りの大人達の事も、他の家庭とは少し違う環境に置かれているという事も、紫月鬼はよく知っていた。けれど、今回の様子はただごとではない。俊之の意識はわずかで、このままだと、命すら、失うかもしれない。

 紫月鬼は、すぐに鬼火を灯した。

 大きな青いゆらめきが俊之の体を包みこむ。

ありったけの力を込めて炎を散らし邪気を払いながら、紫月鬼はうつろな視線を動かす俊之を見つめる。

 しばらくすると苦しみが和らいだのか、ゆっくりと顔を上げた俊之と目があった。何かを伝えようとしているのか、口元がわずかに震えていた。

「また、来たのかよ」

 そう、俊之が言ったのかはわからない。

 けれどその表情は出会った頃のような、自分を待ってくれていた時のような、穏やかな笑みを浮かべているようにも見えた。

 邪気を取り除き、人の心や体の痛みを和らげる。それと同時に記憶を消すことができる鬼火。どうか俊之が少しでも楽になれるのなら。

 人が、残酷な生き物であるのか、愚かで哀れなものなのか。それを知ることはできない。ただ、永遠に溢れ出てくる邪気を払うことしかできない。

 人にしかない感情があるのだという。けれど、それを知る、術もない。

 俊之が眠るように静かに目を閉じると、涙が頬を静かにつたっていった。それは、この世界の中でひときわ美しく、はかない輝きを纏いながら。

「忘れてもいい。でも、忘れないで」

「いつも、そばに、いるから」

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ひゅうきの風 濱 ひろみ @hama_hiro

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