第25話 冬の日の放課後〈それぞれの想い〉


 完成したしおりを先生に預け、次の集まりと予定を確認した後、昇降口で4人は二手に分かれた。

「じゃあ栞那ちゃん、また明日ね」

「うん」

「拓真頼んだよ。しっかり栞那ちゃんを送り届けてね」

「わかってるよ」

 翔とゆかりは家が近い事もあり一緒に帰る事になった。栞那には自転車通学の拓真が送ってくれることになり、栞那は緊張しながら正門を後にした。

 すっかり暗くなった街頭の周りに丸い虹が出ているように、ぼわん、と夜道を照らす。

 毎日1人で歩く道を誰かと歩いているなんてとても不思議で落ち着かない。それもさっき気まずくなったばかりの男子とふたりきりだ。

 

「荷物おけば」

 隣で自転車を押しながら拓真が言った。

「あ、ううん、いいよ大丈夫」

と、遠慮して言ってしまったけれど、もしかしたら感じ悪いと思われただろうか……。しばらくお互い無言のまま歩く。

 沈黙が苦手だ。きっとどうでもよい相手だったらそんな風に思わなかっただろう。

 拓真はゆかりの友達であり、会話は少なかったとはいえ一緒に活動してきた仲間とも言える。もしかしたら気づかない所で迷惑をかけていたかもしれないし、気を使ってくれていたのかもしれない。

 拓真に限らずそう思う相手ほどいつも自然に会話ができなくなってしまう。みんなゆかりの友達であって、自分の友達ではないと思っているからなのかもしれない。

 唯一の話題になりそうなピアノの事はもう言わない方がいいような気がするし、こんな窮屈な思いをするなら走って帰った方が良かったなぁと栞那は密かに思う。


「……さっき」

 拓真が静かに口をひらく。

「え?」

「別に睨んだわけじゃないから」 

「あ……うん。なんかごめん」

 絶対睨んでたけどな……、怖かったし。

「もったいないってよく言われたから」

「……ごめん」

「飽きたっていうか、俺の中でもういいかなって踏ん切りがついたから辞めた」

「そうなんだ……」

「もう10年もやってたから」

「10年……?」

 最初そっけなかった話し方がだんだんと落ち着いていくのがわかった。栞那も全ての神経を集めて拓真の話を聞いた。

「親がピアノ教師だから。もともとやりたくて始めたわけじゃないし、嫌いじゃなかったけど、何か違う事やりたくなって」

「うん」

「親にも攻められた。もったいないって。でも俺には他の事ができない方がもったいないと思ったんだ」

 吐き出すように言葉を紡ぐ。

「やっと最近は親も大会に見に来てくれるようになったけど。少しずつ、記録を出せるようになったからだろうけどさぁ」

 自信のある人の言葉だなぁと栞那は思う。

 反対を押し切ってした事に、ちゃんと結果を出せているのだからそれだけですごい事なのではないだろうか。もともと才能があるのだろう。水泳も歌も辞めてしまった自分には、もう何もないな、と栞那は思う。

 思っていたよりも、拓真が普通にしゃべれる人だったと分かり栞那は緊張が少しほぐれた。


「ねえ、なんで部活入んなかったの?」

 急に顔を見られて目が合って、栞那はぎくっとした。うつむいて答える。

「やりたい事がなかったから」

「合唱は?」

 栞那は一瞬言葉に詰まる。

「……なんで、合唱部?」

「誰か勧誘してって翔が言ってた。人少ないらしいし」

「ああー」

 なんだそういう事か、と栞那は思う。

「それに、歌、好きそうだから」

 拓真の言葉に、まるで気持ちを見透かされたような気がして栞那は顔が熱くなった。

 入学当時合唱部が気になっていたのは確かだし、歌が好きだったのも本当だ。ピアノの音に気持ちが昂ぶって、拓真の伴奏に合わせてつい歌ってしまった事を少し後悔する。


 その瞬間、誰かに呼ばれた気がして栞那は勢い良く振り返った。

 静まりかえった暗い道。誰ともすれ違わず後ろから足音もなく、2人並んで歩いてきた道に人影はなかった。細い街灯が白く地面をただじっと照らしているだけだ。

 マンションまであともう少しの住宅街の中の1本道。この先の十字路を右に曲がれば土手に出られる。左に曲がればもう家だ。

「……なに?忘れ物?」

 拓真が遅れて自転車のブレーキをキュっとかけた。拓真には何も聞こえなかったのだろうか。

「ううん、なんでもない……」

「いや、そんな風には見えないけど……」

「なんか聞こえた気がした。でも気のせいだったみたい」

「マジかよ……脅かすなよ」

「え?」

「俺苦手なんだよ、そういう系……」

「あ、ごめん」

 思わず栞那がクスっと笑うと、拓真も肩をすくめて笑った。日に焼けた細い琢磨の顔に、いくつも筋ができて、とても柔らかい笑い方をする人なんだなと栞那は思った。


「送ってくれてありがとう」

 マンションの前で拓真にお礼を言って栞那はエントランスに向かう。

「あのさ」

 拓真の声で栞那は振り返る。

「あまり気にしなくていいと思う。俺もじんたちのグループ苦手だし」

「あ……うん。ありがとう」

と栞那が答えたと同時に、拓真はすぐ自転車に乗って行ってしまった。

 ずっと苦手だと思っていた人からそんな風に言われるとは思ってなかったので、栞那はなんだか申し訳ないような気持ちになった。でもとても嬉しかった。


 部屋に入り、ふと窓を眺めなんとなく気になって、栞那はベランダに出てみる。

「今日、満月だったんだ……」

 東の空に広がる雲の隙間から、ぼんやりと光を放つ輪郭の崩れた月を栞那はしばらく眺めていた。


***


「もうあまり時間がないのね」

 東の空の雲に隠れて歪んだ月をぼんやりと眺めていた彪鬼の隣に、紫月鬼が舞い降りた。

「……見ていたのか?」

「ええ」

「そうか」

 彪鬼はゆっくりと空気を吸い込むと、言葉にも感情にもならない何かと共に、この世界に静かに戻した。街を照らす月の微かながら鋭い光に照らされる体までもが、白く、儚さを増していくようだ。

 たった今、目の前を通り過ぎていった2人の足元には、くっきりと並んだ影が映し出されていた。無機質な灯りにどんなに照らされようとも、自らの後ろにそれは存在しない。

 人にとって、光がなければ見る事も叶わず、見えないものはないものと同じなのだ。そう思った瞬間、思わず栞那の名前を呼んでいた。


「本当に儚いもの」

 また紫月鬼の口癖だ。

 本当に人の世界は瞬く間に過ぎてゆく。

 いつの日からか、土は厚く硬い石に覆われ、見渡せた景色は高い壁で遮られた。花や木々の香りは煙にかき消され、澄み切った水はよどみ、輝く星は作られた光に輝きを失った。

 恐れられ忘れられ、そして、そこにいた者たちと共に行き場所をなくしてゆく。

 彪鬼は遠い昔に抱いていた気持ちが、また強く湧き上がってくるのを感じていた。もう痛みを感じる事はなくなったというのに。


 しばらくすると前方から自転車が近づいてきた。

 栞那と一緒に歩いていた男の乗った自転車が彪鬼と紫月鬼の脇を勢いよく走り去り、もと来た道を戻っていった。それを追うように彼の起こした風が跳ねるように辺りを散らしてゆく。

「あら……嬉しそう」

 紫月鬼の言うとおり、彼の顔は少し紅潮しているように見えた。

 そんな彼を包み込む光のような輝きは、周りの闇をも照らしてゆく。それは無垢で紛れもない人の心だといつしか知った。栞那が真っ直ぐ自分に向けてくれる眼差しと重なる。

「彪鬼、あなたの気持ちをわかってあげられなくてごめんなさい。でも栞那ならきっと大丈夫よ」

 紫月鬼は、闇も悪もない笑顔で彪鬼に語りかける。

「そうだな」


 彪鬼はまた空を見上げる。

 雲がかかった丸い月。輝きを失ったわけでも、消えてしまったわけでもない。変わらずそこにあり続ける。それでいいと本当はわかっている。

 彪鬼は栞那の部屋に寄る事ができずに、風を連れて影の濃い山へ向かった。

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