第24話 冬の日の放課後〈フラッシュバック〉
あの頃、何度も何度も歌った合唱の曲。
よみがえってくる風景。苦しくて恥ずかしいような、くすぐったい気持ち。
精一杯の意地と小さなプライドで最後までちゃんと歌えなかったけれど、大好きだった懐かしいメロディーが、耳から勢い良く入ってきては、栞那の体の隅々を駆け抜け、全ての感覚を支配していく。
目の前で聴くピアノの音は想像以上に大きくて、伝わる振動が体の表面をしっとりと湿らせていくようだ。
その激しい音とは反対に、拓真の日に焼けた腕が柔らかく上下に動き、体が前後に呼吸をするように滑らかに揺れる。
それは子守唄を囁きながら赤ちゃんの背中を叩くように優しくしなやかで、うつむく横顔は、険しさの中にどこかなだめるような憂いの表情を浮かべていた。
サビにかかった時、ゆかりが急に歌い出して目で合図を送ってきた。思わず栞那も自然と声が漏れる。
喉に力を入れて音程を探す。息を吸って言葉を音にのせると、教室がまるで宇宙の始まりみたいにどんどん広がって行き、自分がその中心にいることを思い出させてくれるような感覚に襲われた。
そしてゆかりがアルトのパートを歌うと、2つの旋律は綺麗にハモって、ふたりは目を合わせて微笑んだ。
間奏に入ると思いきや、拓真の腕が突然宙に浮いた。時が止まったような衝撃で栞那とゆかりは我に返る。
「終わり」
拓真がピアノの蓋をパタンと閉めた。
「せっかく気持ちよく歌ってたのにー」
ふてくされたゆかりに、拓真が顎で教室の小窓を指す。
見ると窓ガラスに張り付くように吹奏楽部であろう子たちが笑みを浮かべながらこちらを覗いていた。彼女たちもこちらの姿勢に気づくと、さぁっと去っていき、バタバタと走る音と笑い声が廊下から聞こえた。
「なんでピアノやめちゃったの」
ゆかりが言うと、
「飽きた」
と一言、ため息まじりに言って拓真はシャツの袖を直した。
栞那の心臓は振動に震えたままのようにまだドキドキしていた。本当に素晴らしい伴奏だった。目の前で聞けて嬉しかったしとても感動した。
想像できないくらい沢山練習を重ねてきたに違いない。自分の力で誰かを感動させられるなんてすごい事だし、簡単にできる事じゃない。きっとピアノが好きだったのだろう。なのにやめてしまったなんて。
「もったいない……こんなに上手なのに」
栞那は素直に感想を述べたつもりだった。
でもその瞬間、琢磨の鋭い視線とぶつかり、栞那はびくっとする。
「目つき悪ぅ」
と、ゆかりが拓真の肩をポンと叩くと、拓真は翔の隣へ行ってしまった。栞那に動揺が残っていることを察してか、ゆかりが唇をとがらせ変顔をしてみせた。
「あれ?全然進んでないじゃないかあ」
担任の尾上先生が入ってきた。
「へへっ、すみませーん」
と、少しとぼけて答えたゆかりが、急いで印刷されたしおりの用紙を順番通りに並べて折り始めた。遅れて3人が机の前に集合して手を動かす。
栞那は拓真との何となく気まずい空気を作業に集中してやり過ごしながら、約200冊にもなるしおりが完成したのは、もう6時を回っていた。
「お疲れさん。これご褒美な」
尾上先生が紙袋の中から取り出したのはお菓子だった。チョコレートとおせんべいの香りが暖まった教室に充満する。
「わーい」
と、一番先に受け取ったのは翔だ。栞那も手を出すと、先生の大きな手からこんもりとお菓子の山を載せられた。
「学校で食べるなよ」
栞那は「はい」と返事をすると、落とさないようにカバンにしまった。小学生のおやつのような単純なご褒美にとても嬉しかった。
「遅くなっちゃったから、男子は女子を送って帰れよ」
先生の一言に、全員が一斉に顔を上げる。
「この間の事があるしな」
と先生が付け加えると、みんなは「ああ」といった空気になった。
栞那は窓の外を見る。冬の夜は早い。あっという間に学校の外は真っ暗になっていた。
「この間の事」を思い出すたび、栞那は掴まれた左腕を、無意識に右手で覆ってしまっていた。
幸いにも犯人の男はすぐに捕まった。
時々小学生などに声をかけていたらしく、前々から怪しいと噂されていた人物のようだと母親が教えてくれた。
学校ではそんな事件があったと集会でも話が出たけれど、その被害者が栞那だという事は伏せていたはずなのに、どういうわけか一部の間では知っている人がいたようだ。
委員のメンバーにはゆかりを通して話は通っていたけれど、親や祖母が誰かに話したものや、近所の人が見かけたなど情報はいくらでもあったのかもしれない。
栞那にとって一刻も早く忘れたい出来事なのに、周りはなかなかそれを許してはくれないみたいだ。
「先生、森田達、何とかなりませんか?」
お菓子をバックにしまったゆかりが、真剣な顔で尾上先生に近づいた。
「あーわかっているよ」
それを優しいトーンで先生が返す。
その少し緊迫した空気を敏感に感じたのか、男子2人は「トイレ」と言って教室を出て行った。栞那もゆかりが先生に言いたい事が何かを感じとる。
特別悪いことをするわけでもなく、誰かをいじめるとかでもないけれど、注目されたいだけなのか、授業を中断させたり雑音の多いとにかく面倒な人達だ。
「声かけられて浮かれちゃったのかな」
「私も相手がイケメンだったらどうしよう〜」
男が捕まってからしばらくしたある日、グループ内の女子たちはそう言って笑っていた。
未遂とはいえとても怖い思いをしたのは事実だ。冗談だとかギャグだとか、彼らはいつもそれを言い訳にする。
そういう時どう向き合えばいいか、栞那は経験上よくわかっている。けれど、ゆかりにとっては我慢ならなかったようだ。栞那の知らないところで勝手に彼女たちに文句を言いに行き、反感を買うことになってしまったのだ。
自分の事をどう言われようと構わないけれど、自分のせいでゆかりがターゲットになってしまったのが、栞那はいたたまれなかった。
頑張っている人がどうして悪く言われなくてはならないのか。悪い人がなぜ我が者顔でいられるのか。この答えは一生でないのだろうか。
「私は気にしてないよ。もういいよ放っておこうよ。いつもの事じゃん」
「よくない。私はムカつく」
頑固者の親父のように、ゆかりに到底声は届かなそうだ。
「きっと栞那ちゃんスタイルいいからひがんでるに違いないね。前からそんな感じ出てたし」
「関係ないって」
「女は嫉妬するとそーなるんだって」
まさか本当にそんなくだらない理由があるなら、なおさらまともに相手をするのは無意味で時間の無駄にしかならない。
「なるほどねー」
尾上先生がおっとりとした声でつぶやく。
「先生〜」
ゆかりが声を張り上げる。
「ちゃんと話すさ。っていうかこれまでも話してきたからね。まぁもうすぐこのクラスともお別れだし、この合宿で良くなると僕は思っているよ」
さすがのゆかりも尾上先生の言う事には反論しない。先生がただ単に彼らのご機嫌取りをしていない事をわかっているからだ。
「とはいえ秋川、何かあったらちゃんと言えよ」
「え、私は大丈夫です」
「お前はいつも大丈夫って言うよな。本当にそうなのかもしれないけど、頼ったっていいんだからな。それに頼ってもらえない方は結構寂しいもんなんだぞ……」
「ほ、ほんとに大丈夫です……!」
「笠原も少し冷静になれな。お前らしくない」
「はぁい……」
まだ大学生と間違われると自ら自慢するほど若く見える先生は、よく声をかけてくれて親身に話を聞いてくれた。
そんな先生にとっては、うるさい彼ら達も悪人や罪人ではないのかもしれない。些細な悩みを抱えている人を弱い人と放っておいたりしない大切な1人の人間、と向かい合える人なのだろう。
自分の軸を持っていて支配しない大人。力を抜くこと楽しませることを知っている。
少しあの人に似ているな、と栞那は思った。
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