第23話 冬の日の放課後〈衝撃〉
第2音楽室は北階段を上った4階にある。
踊り場を挟んで反対側にある第1音楽室から吹奏楽部の演奏が控えめに聞こえてくる。けれど、厚い防音扉や壁で閉ざされたその中の様子は全く見えない。
栞那は第2音楽室のドアの小窓から中を覗いてみる。同じ音楽室といえど、こちらは普通の教室と変わらない造りだ。
ドアのすぐ近くには大きなグランドピアノがあり、部屋の隅にはいくつかの机と譜面台や、使われていない楽器なのか黒いケースが無造作に集められ、中央部分だけが、がらん、と穴の空いたような空間になっている。
黒板には「目指せ!金賞!」の文字が書いてあり、薄暗い教室に人影はなくまだ誰も来ていないようだった。
栞那がそっとドアを開けると、湿っぽい匂いと、ひんやりとした空気が顔にかかる。思わず顔をしかめると、廊下に響き渡る声が後ろから聞こえた。
「栞那ちゃーん!おまたせー」
「あ、ゆかりちゃん」
「先輩に練習休むって言ってきたー」
「うん、おつかれー」
栞那の開けたドアの前で、ゆかりも同じく顔をしかめて軽く咳こんだ。
「何か匂わない?この部屋」
「ゆかりちゃんもそう思う?」
「換気してから準備しよっか」
迷いなく窓に向かっていくゆかりを追って栞那も教室に入る。あっという間に全部の窓が開け放たれ、新鮮な空気が部屋の澱みをかき消していく。酸素が行き渡るような心地良さだけれど、今日の空気は一段と冷たい。
「暖房つけるね」
栞那がエアコンと電気をつけると、照らし出された大きな岩の塊のような黒いピアノは、うっすらと白い埃をかぶっていた。
「合唱部、しばらく練習なかったのかなー」
ゆかりはそう言いながらおもむろに掃除用具入れに向かっていき、中からクロスと雑巾を取り出すとピアノの天板をさっと拭き、でたらめに置かれた机を丁寧に並べ始めた。
その様子を始めはぼんやりと見つめていた栞那も、慌てて雑巾を取りに行き、ゆかりの後を引き継ぐように机の表面を拭いた。
実行委員の役割を引き受けると同時に、ゆかりとは一緒に仕事をするという間柄に変わった。
もちろん友達ということに変わりは無いけれど、何かを決めたり意見を言ったりするゆかりを違う目線で見たときに、自分にはないものを自然に振る舞える姿がとても羨ましく、そしてそんな行動が栞那の心をさらにかき立てた。
それは、焦りと諦めがいつも背中あわせのようでもあった。
リーダーやまとめ役のような仕事は、責められたり損をすることが多いものだ。必ずやらなくてはいけないものではないのに、わざわざ好き好んでやる人は、人の上に立ってただ威張りたいだけだと思っていた。
けれど必ずしもそんな人ばかりでは無いのだと、ゆかりを見ていて気づいた。
ゆかりは何か使命感のようなものを掲げているのではないか、と思えるほど人の為に動く事をまるで躊躇しない。
それとは正反対の自分がまさかこんな仕事に関わるなんて想像もしていなかったけれど、この2ヶ月、誰かの足を引っ張らぬよう自分なりにできることを必死でやってきたつもりだ。
想像以上に大変なことも多かったけれど、ようやく来月に本番のスキー合宿が迫っていると思うと、栞那は少し興奮していた。
今日も放課後、しおり製作と言う仕事の為集まることになった。今は印刷が終わって、しおりが届くのを待っている。
机を並べ終え、栞那は窓を閉めに行くと、空は茜色に染まっていた。吐いた白い息が、夕日に溶けそうな薄雲のように、形をなさずに消えていった。
「ちょっと弾いてみたくない?」
ゆかりがピアノのカバーを上げて、指でポンポンと鍵盤を叩いた。その音が気持ちまで弾ませるように栞那の胸をときめかす。
栞那はピアノの長椅子にゆかりとお尻をくっつけて座った。
「ゆかりちゃん、ピアノ弾けるの?」
「ううん、全然」
そう言いながら、ゆかりは猫ふんじゃったを軽快に弾いて見せた。ゆかりの演奏の邪魔にならないように、栞那も指先で鍵盤を押してみる。
優しく触れただけでは音はほとんど鳴らない。指に力を込めて押すと、奥の方から乾いた音が届くのを栞那はドキドキしながら聞いた。
その時、ガラっとドアが勢いよく開いて、2人がのっそりと部屋に入ってくる。
「何これ!すげー寒いんだけど!」
「ちゃんと掃除しておきましたから」
ゆかりが椅子から降りて、彼らに近づくのを栞那も追う。
「つーかなんでここなんだよ」
と、一緒に来た
「ありがとう。重かった?」
栞那が言うと、「別に」と拓真が言って、ポケットからホッチキスを2つ取り出して差し出した。後ろから来たゆかりがそれを受け取る。
「ご苦労様。今日は教室使えないんだからしょうがないでしょ。でもやっぱり力仕事は男子が頼りになるわー」
ゆかりはすぐに印刷物をチェックし始めた。
労いの言葉やフォローが上手く、なおかつ仕事が早いゆかりは、まず嫌われないし男子にも人気があるのだろうな、と栞那は密かに思う。
実行委員は男子と女子が半々と言う決まりだったので、男子2人もほぼゆかりの推薦で決定したようなものだった。
ゆかりの家の近所だと言う翔は、いつも寝癖をつけていると思っていたけれど実は天然パーマだったと委員になって知った。
拓真の事は陸上部で時々名前が上がっていたので知っていたけれど、委員になった今でもほとんどまともに話をした事がない。というか会話が続かない。少し苦手なタイプだ。
コツコツと後ろで黒板を叩くチョークの音がして栞那は振り返ると、翔が合唱部が書いたであろう文字や絵に落書きをしている。その豪快に書き足していく様子に栞那はぎょっとする。
「え、落書きしたら、まずいんじゃない?」
「別にへーき」
「でも……」
ためらいもなく書き続ける翔を見て、栞那は肩をすくめる。
せっかく綺麗に書いてあるものを汚して、デリカシーというか思いやりというか、そういうものを男子を持ち合わせていない生き物なのかもしれない、と思う。
「大丈夫だよ」
拓真がつぶやくような小さな声で言った。「翔は合唱部だから」
「え?」
「そ、これ俺が書いたやつだから。そろそろ書き直そうと思ってたんだよねー」
「最近練習ないの?」
ゆかりが印刷物の仕分けを終えて、ピアノの脇に戻ってくると、書き終えて満足したのか、翔はチョークを置いた。
「しばらく、香川先生の急用」
「ふうん、それにしてもさぁ、落書きしてる暇があったら掃除したら?合唱部」
「してるよ、たまに」
「たまに?綺麗な環境じゃないと、金賞は狙えないんじゃない?」
「才能と綺麗好きかは関係ないね。天才はたいてい机や部屋が散らかってるもんなの」
言ってやったみたいな顔をして、翔はさっき拭いたばかりの机にどかっと座った。
「杉浦が天才かどうかは別だと思うけど」
と、すかさずゆかりは翔のお尻を叩いた。
「降りなさいよ」「いてーな」といつもの減らず口対決が始まる。
栞那はそんな2人の様子をぼうっと眺める。
最初から部活には入らないつもりでいた栞那にとって、入学してすぐに聞いた合唱部の歌声は心を激しく揺さぶるものだった。あんな風に歌えたらいいのにと思う反面、厳しい指導についていけるはずがないと分かっていた。
1年生はもう辞めてしまった子が結構いると聞いていたけれど、このいつもお調子者の翔が合唱部だったというのも知らなかったし、厳しい練習の中歌い続けているという事実に、栞那は軽い衝撃を受けていた。
「あ、そうだ。ねえ藤本、ピアノ弾いてよ」
「はあ?」
突然言い出したゆかりを拓真が睨むように見上げる。
「栞那ちゃん、知らないと思うけれど、藤本って合唱でピアノの伴奏してたんだよ」
「ほんと余計な事言うよな」
拓真はゆかりに対していつもそっけない。というか誰に対してもクールで妙に大人っぽい。ただ見た目体育会系の拓真がピアノを弾く姿は栞那には全く想像がつかなかった。
「ピアノ、弾けるんだ。すごいね」
栞那はなるべく普通に言ったつもりだったけれど、拓真は何も言わずあくびをして首を鳴らした。
「藤本、1回だけでいいからお願い。あれ弾いて欲しい。あとでおごるから。栞那ちゃんも聞きたいよね?」
「えっ?え、う、……うん?」
「ほら栞那ちゃんも聞いてみたいって」
拓真はだるそうに鍵盤を見つめながら黙っている。
なんとなく返事をしてしまったけれど、正直拓真の事はよくわからないので栞那は後悔する。なんだか不機嫌そうにも見えるし、とにかくとても気まずい。
「あ、えと、やっぱりいいよ、悪いし……」
こんな時、話の流れをうまく変えてくれそうな翔は窓から外を眺めて誰かに手を振っている。こちらの様子には全く興味がないようだった。
「……マジで飯おごってもらうからな」
そう言った拓真が、白いワイシャツの袖をまくり両手の指を大きく開いたかと思うと、鍵盤に強く押し当てた。
その瞬間から、栞那の体はとらわれた人形のように動けなくなった。
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