スプーク

 しとしと雨の降る、寒い夜だった。

「お客さん、どちらまで?」

 彼は、バックミラー越しに、後席に座った客を見ながら言った。

「──まで……」

 客はか細い声で言った。若い女だった。長い黒髪、青白い顔。ブラウンのコートが妙に似合ってない。荷物は、革製の大きなカバンひとつ。

 

「わかりました。じゃ、シートベルト閉めてくださいね」

 タクシー運転手らしくそう言ったものの、実のところ彼は、客の告げた目的地に行くつもりはなかった。それどころか、客を生かして降ろすつもりもなかった。

 彼は某国情報機関の資産アセットの一人だった。いわゆる濡れ仕事屋ウェット・ワーカー──殺し屋である。

 今回の仕事は単純だった。人気のないところで、ターゲットの眉間に一発。それからブツを奪う。彼にとっては、何度もやった類いの仕事だった。タクシー運転手になりすましたことも何度もある。

 今回のターゲット──後席の女は、彼の雇い主と敵対する機関の職員である。彼女は何かしらの機密情報を携えている。連絡役リエゾンなのだ。だからこそ、不運にして“殺しのリスト”に載せられてしまった。

 彼はそれ以上のことは知らない。知るつもりもない。必要以上のことは知りたくないし、知るべきでもない。必要知原則ニード・トゥ・ノウ──業界における長生きの鉄則。

 彼はバックミラー越しにターゲットを見る。彼女は、自身を待ち受ける運命も知らず、窓の外をぼんやりと見つめている。

 彼は特に感慨を抱かない。そんな心はとうに擦りきれた。人はいつか死ぬ。この女にとってはそれが今日というだけだ。

 そのときだった。

「あの」

 客が口を開いた。

「なんでしょう」

 彼は前を見ながら返事した。

「あの……この道、やけに遠回りの気が……」

 妙なところで勘のいい女だ。

 彼は内心舌打ちした。

 本当はもう少し先の、いつも人気のない小路でするつもりだった。が、仕方ない。騒がれたら面倒だ。幸い、人通りはない。

 彼は素早くタクシーを路肩に寄せつつ、懐からサイレンサーつきのベレッタ22口径を抜きながら言った。

「この道でいいんですよ」

 振り向いた。

 女の姿はなかった。

「なっ」

 彼は愕然として身を乗り出した。シートの影に隠れたのかと思ったのだ。

 いない。

 カバンもない。

 そんなバカな。いったいどうやって?

 自分の目が信じられず、彼は呆然と頭を振った。

 そのとき、ふと座席に目がいった。

 後部座席は濡れていた。

 雨でコートが濡れていたんだろう、と彼は考えた。些末なことだった。それより、この不可解極まりない事態にどう対処するかが問題だった。

 彼はタクシーから降りて周囲をチェックした。女の姿はどこにもなかった。次に車の下を覗き込んだ。やはりいない。もしやと思い、タクシーのトランクも開けて調べてみたが、やはり見当たらない。

「ばかな」

 彼は呻いた。第一、どうやってあの女は姿を消したのか? ドアを開けたわけでもないのに? わけがわからなかった。こんなことははじめての経験だった。

 夜の闇が、にわかにじっとりと質量を持ったかのように、彼を押し包もうとした。

「くそっ」

 彼はタクシーに戻った。とりあえず、雇い主に連絡を入れねばならない。雇い主は激怒するだろうが仕方ない。事実は事実だ。仕切り直しするしかない……。

 運転席に座り、彼はバックミラーをふと見た。

 女が座っていた。

 彼は振り向きざま、22口径を発砲した。

 くぐもった銃声が三度車内に反響した。

 女の姿はまたもや消えていた。

 ありえない。こんなことが。

 そう思ったときだった。

 彼の首に、やけに青白い腕がするりと巻きついた。

 まさか。

 彼の背筋を冷たいものが流れ落ちていった。

 耳元で声がした。女の笑い声。

「うふふふひひひひひひひ」

 彼は絶叫した。


 しんと静まり返ったタクシーの車内で、女の声がした。

「はい、もしもし……ええ、はい、トラブルはありましたが、予定通りにそちらに。はい。それでは」

 しばしの沈黙。

 それからまた、女の声がした。

間諜スプーク稼業も楽じゃないわねえ」

 そう言って、亡霊スプークはこの世ならざる声で笑った。

 

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小さな(そしてときどき奇妙な)物語たち HK15 @hardboiledski45

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