第30話 旅立ちの日

ジクフリードやナディア、ルイスを捉えた国王軍は、彼らの処分を決めるため王都へと戻っていった。

「後日連絡を致す。」

そう言い残して、ロートヴァルトを出発した。


あれから数日が過ぎた。


ロートヴァルトにはすぐに日常が戻ってきた。もとより被害がほとんどなかったのだ。ハンナもいつも通り紅の森の見回りをして、領民達とお喋りをして、公務をこなす日々を過ごしていた。

そして今日も、ハンナはお座りを覚えたモコを前に、手を差し出し「お手」と何度も呼びかけていた。

しかし悲しいことにモコは可愛らしく首を傾げて差し出された手を見つめていた。


「ハンナ様」

「イムレ様!」


ハンナは後ろを振り返り、笑顔を見せた。


「どうされましたか?」


モコとハンナを交互に見ては、不思議そうな表情を見せたイムレは、恐る恐る口を開いた。


「……もしかしてまた何か芸を?」

「はい!今度はお手に挑戦しようと思ってます。」

「もきゅ!」

「ほら、モコもやる気ですし。」


しかし、やる気だけで「お手」への道のりはまだ遠いようである。モコは何も分かっていないのだから。

イムレは思わず笑ってしまった。


「ふふ。頑張ってください。」


イムレもよく笑うようになった、とハンナは思った。ロートヴァルトに来たばかりの時はどこかピリピリしていて、ずっと警戒しているような様子だった。だがいつの間にか、領民達とも親しく話している姿を見るようになり、今ではすっかりロートヴァルトに溶け込んでいる。


「ところで、何か用があったのではないですか?」

「はい。俺もそろそろ自分の国に帰ろうと思います。」


しかし、別れは当然やってくるものである。

イムレは竜王の国の王子。帰らねばならない場所がある人なのだ。


「あ。そう、ですよね。」


いつの間にかイムレがそばにいることが日常になっていたハンナは、動揺した。視線は泳ぎ、手混ぜをして、落ち着かない。そんなハンナの足元にモコが擦り寄り、心配そうに見上げてくる。そんなモコの頭を撫で、ハンナは口角を上げ、笑顔を作った。


「それじゃあ、お別れパーティーしないといけませんね。イムレ様はすっかりロートヴァルトに馴染んでおりましたから、みんな、寂しく思います。」

「……ハンナ様もですか?」

イムレの真剣な声色に、ハンナは目を瞬かせた。

「当然じゃありませんか。」


イムレ様は優しい。

そばにいるととても落ち着く。

それでも、いつまでもロートヴァルトにいられる人ではない。

ハンナはそう自分に言い聞かせた。

ハンナの笑顔に、イムレは少しだけ悔しそうに笑った。


「それで、最後にタロウ殿と手合わせしたいと思って探しているんですよ。」

「タロウですか?」


イムレは頷いた。

ロートヴァルトに来てから、イムレはタロウとよく鍛錬をしていた。毎日傷だらけになっていたイムレは、タロウには敵わないとよくぼやいていた。

きっと心残りがないようにリベンジがしたいのだろう。ハンナは最後にタロウを見かけた場所を思い出していた。

すると、いつの間にかイムレの後ろにタロウの姿を見つけた。


「私なら此処ですよ。」


タロウの突然の声かけに、イムレは驚いて後ろを振り返った。

一体いつから見ていたのだろうか。

ハンナも気付かないくらい音もなく忍び寄ってきたのだ。イムレは最後の最後までタロウに敵いそうにないな、と冷や汗を流した。


「イムレ様はお帰りになられるのですか?それはそれは。」


タロウは満面の笑みでふさふさの尻尾をパタパタと動かした。


「……嬉しそうですねえ。」

「まさか!とても悲しいですよ。」


どう見ても嬉しそうである。

イムレはため息をついた。

イムレがハンナと話しているとよく殺気立った視線を感じていた。それがタロウのものであることは気付いていたが、何も言わない方が身のためだと思っていた。


ーーまさかここまで露骨に喜ばれるとは思わなかった。


いっそ清々しいほどである。

余裕に満ちた態度のタロウは、イムレにとって大きすぎる壁であった。一国の王子を相手にしてもどうにでもできる自信と、実力があるからこそできるのだろう。そして、その実力はイムレもよく知っていた。

しかし、イムレはそれでもタロウと向き合わねばならない。


「タロウ殿。俺と手合わせして欲しい。」

「ええ、いいですよ。」


タロウはすぐに頷いた。そして、手に持っていた2本の木刀のうち一本をイムレに渡した。


「そういうと思って持ってきました。」

「さすが、ですね。」


本当に、いつまで経っても敵う気がしない。

イムレとタロウは互いに構える。

ハンナは邪魔にならないよう少し離れた場所で勝負の行方を見守った。


しかし、勝負は呆気なく終わった。


ハンナの目では追えない速さでタロウがイムレを打ちのめし、イムレの剣を弾いたのだ。


「やっぱりまだまだだなあ。」


ぼろぼろに傷付いたイムレは笑いながら、少し離れた場所にいるハンナの方を見た。ハンナは不安そうに眉根を下げてこちらをじっと見守っている。その必死な表情が、愛おしくて、可愛くて。

「大丈夫だよ」とすぐに声をかけて安心してほしい。

いつも頑張ってしまうハンナが、安らげるように、何かしてあげたい。

けれど、その役目はタロウがすでに独占してしまっている。

悔しい、と心から思う。

タロウには敵う気がしない、とも思う。

けれど、だからと言って諦める気もなれない。

イムレはハンナに近づき、そして膝をついた。

ハンナの左手を優しく手に取り、ハンナを見上げる。


「いつか、タロウに勝ったら、ハンナ。君に婚約を申し出たいと思う。」


そう言って左手の薬指にキスをした。

ハンナの様子を伺うと、何が起こったのか全く分かっていないようで、目を丸くしている。その表情も愛らしくて、イムレはもう一度左手にキスをした。


「え!」


ようやく何をされたのか理解し始めたハンナはどんどんと顔を赤くした。


「ははは。イムレ殿は度胸がおありだ。」


イムレの首根っこを掴んで、ハンナから引き剥がした。笑ったタロウの顔が今までで一番恐ろしい。

イムレはなんとかタロウから距離を取り、背中から翼を出した。


「ほほお。さすが竜王の一族ですね。」


竜族は完全な竜の姿になることも、翼だけ出して空を飛ぶことも出来る。人間より傷の治りが早くて頑丈な肉体に、強大な力を持つ種族なのだ。


「ハンナ様、今までお世話になりました。また、会うこともあるでしょう。それまでお元気で。」


イムレは爽やかな笑顔を見せて、颯爽と飛び上がった。


「他の魔物から攻撃される前に逃げましたね。」


タロウは悔しそうにそう呟いた。

悪戯っ子のような笑顔を見せたイムレは、ハンナと視線を合わせ、そして何も言わずに一点の曇りもなく青く広がる空へと飛び去っていった。

出会いと別れが交差する季節のその青い空は、どこまでも綺麗で澄み渡っていて、そして、どこか寂しい。


ーーイムレ様の旅立ち、笑顔で見送れているかな。


激しく、そして温かい春の突風のように去っていったイムレ。

どうか、イムレの旅が希望に満ちた明るい旅路でありますように。


そう願いながら、ハンナはイムレが見えなくなるまで見送った。


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うちの執事は猫ですが。〜婚約破棄された不運令嬢は、もふもふに囲まれて幸せです。〜 友斗さと @tomotosato

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