女の勘
尾八原ジュージ
女の勘
彩乃の部屋に入った瞬間、俺は違和感を覚えた。わけもなく、何かがいつもと違うという気がした。しかし大して気にも留めず、靴を脱いで部屋に入ると、ローテーブルの向こうに座っている彩乃が口を開いた。
「ひーくん、あたしに嘘ついてるでしょ」
ぎくり、と心臓が痛んだ。心当たりならいやというほどあったが、さしあたって一番まずいのは、俺が既婚者であることを隠して彩乃と付き合っていることだ。
「もしかして、冷蔵庫にあったチョコ食べたのバレた?」
わざと的はずれな答えを投げてみると、彼女はにこりともせずに「違う」と言った。
「彩ちゃんの寝顔勝手に撮ったこと?」
「違う」
笑いもしなければ突っ込んでもこない。明らかに普段の彩乃ではなかった。俺は猛烈に逃げ出したくなったが、そんなことをすれば墓穴を掘るのは明らかだった。
「とにかく風呂貸してよ。今日蒸し暑くてさ……」
「今は駄目。座って」
彩乃の態度は固い。俺は諦めて、ローテーブルを挟んで彼女と向かい合った。
「あのさ、奥さんのことなんだけど」
やっぱり。
そこまでネタが割れているなら仕方ない。俺が肩を落として「何でわかった?」と尋ねると、彩乃は黙って俺の顔を見つめた後、ふふっと笑った。
「……女の勘ってやつかな」
逃げないでよ、と付け加えながら彼女は立ち上がり、俺の横を通って玄関へと向かった。
彩乃の住むアパートには室内に廊下がなく、玄関を開けるとすぐに居室に繋がっている。俺の逃亡を阻止するためだろう、彼女は俺が閉め忘れたドアのチェーンをかけ、俺の靴をシューズボックスに放り込んだ。
「話、しようか」
そう言いながらこちらに戻ってくる。俺は思わず、途中にあるミニキッチンを警戒してしまった。言わずもがな、そこに包丁があるからだ。しかし彼女は手ぶらで歩いてくると、再び俺と向き合って座った。
「ひーくん、結婚してたんだね」
穏やかな口調の影に、なにか氷のように冷たいものがあった。こうなったらもう、反省しているように振る舞うしかない。俺は深く頭を下げた。
「……ごめん」
「結婚してるの隠して、あたしと付き合ってたんだ」
「本当にごめん」
「ごめんとかいいから」
顔を上げると、彩乃が俺を見つめていた。
「ひーくん。あたしと奥さん、どっちが好きなの?」
そんなもの妻に決まってるだろ、曲がりなりにも結婚してるんだから――とは言えない。
「そりゃ、彩乃だよ」
「うそ、奥さんでしょ。顔見たらわかるよ」
それも女の勘かよ、と思わず吐き出すように呟くと、彼女は「そうだね」と答えた。
女の勘なんて、あやふやなようで案外当たるものだ。そういえば、と俺は昔付き合っていた女のことを思い出した。彼女のときも俺の浮気が原因で別れることになったのだが、そのときも「女の勘がどうとか」なんて言われた気がする。ともかく、こうなればもう年貢の納め時だ。彩乃とは関係を絶たなければならない。
「ねぇ」
つい考え事にふけっていた俺は、彩乃に呼びかけられて我に返った。
「ねぇ、ひーくんは奥さんのところに帰ろうと思ってるんでしょ」
問い詰められて、今更のように俺は迷った。「そうだよ」と答えても「違うよ」と答えても、どちらにせよ何か恐ろしいことが起こるような気がした。
黙っている俺に、「ねぇ、そうなんでしょ」と彼女が畳みかける。なぜか笑いを含んだような声色が、俺を急に苛立たせた。
「うるさいな。そうだよ」
俺は立ち上がり、玄関に向かった。彩乃は追ってこなかった。シューズボックスを開け、自分の靴を取り出そうとした俺は、そこに思わぬものを見つけて凍りついたように手を止めた。
シューズボックスの中に、見慣れた妻のパンプスが入っていた。
「あ、見つけた? 実は今日、奥さんが来たんだよ」
彩乃がこともなげに言った。
「奥さん、あたしに言ってたよ。気づいたのは女の勘のおかげだって。最初は普通に話してたんだけど、だんだん喧嘩になっちゃって」
俺の全身から血の気が引いていく。この部屋に入った時に感じた違和感が、ふたたび頭をもたげてくる。普段よりも床が綺麗すぎやしないか。いつもしまってあるはずの包丁が珍しく水切り籠に入っているな。バスルームの扉にも拭き掃除の跡が見えるし、かすかに鉄臭いような匂いがする……。
彩乃が俺を指さし、「あはは、ひっどい顔」と笑った。
「奥さん、バスルームにいるよ。奥さんのとこに帰るんでしょ、ひいちゃん?」
バスルームのドアはすぐ近くだ。俺は取っ手に手をかけ、一思いに開いた。とたんに鉄のような匂いがむっと強くなって俺の鼻腔を襲った。
頭をぐったりと前に垂れた妻が、バスタブの中に座っていた。
「ね、いたでしょ?」
いつの間にか、俺のすぐ後ろに彩乃が立っていた。
女の勘 尾八原ジュージ @zi-yon
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