彼との思い出

凪野海里

彼との思い出

 高校最後の日に彼氏にフラれた。入学間もない頃からずっと付き合ってきたから約3年の付き合いになるというのに、あまりに唐突で。3年間も苦楽を共にしてきた学校や仲間たちと別れることに流していた涙はあっという間に引っ込んで、代わりに突如別れを告げてきた彼氏の言葉に、大粒の涙をこぼした。

 なんで、どうして。私は思わず彼に詰め寄った。たしかに高校を卒業してしまえば、離れ離れになることはわかっていた。私は地元の大学に進むけれど、彼は都内の大学に行くため、この町を出ていくことになる。でも私は彼が好きだから、例え遠距離になっても問題はないと思っていた。そのことを伝えても、彼は首を横に振るばかりだった。


 家に戻って、自分の部屋のベッドで散々泣いたあと、気が付いたら外は夜になっていた。私の泣き声を聞いてそっとしておこうとでも思ったのか、家族は一度も部屋を訪れなかった。泣いたことである程度落ち着いてきた私は、ベッドから起きて制服を脱いだ。

 冷静になろう。自分にそう言い聞かせる。もしかしたら明日になれば彼の気も変わって、「ごめん」って謝ってくるかもしれない。それを期待して、その日はもう休むことにした。


 夜が明けて、真っ先にLIMEを確認してみた。彼から何かメッセージが入っていないだろうかと淡い期待を抱く。けれど何もなかった。最後のメッセージは昨日の朝、「卒業式が終わったら話がある。校舎裏に来てほしい」という内容だった。私はそれに「OK」と気軽に返事をして、笑顔のスタンプを押したのだ。

 なんで別れることになったんだろう。もしかして、私は重すぎた? ずっと彼の負担だったのだろうか。考えても考えてもわからない。

 いつもより遅めの朝ごはんを食べてから、私は手持ち無沙汰にふらふらと町へでかけた。


 町には、彼との思い出が染みついている。

 毎朝学校へ登校するために待ち合わせをした、公民館近くのバス停。私が先のときもあったし、彼が先のときもあった。彼は野球部だったから朝練もある関係で早起きすることがあった。彼が「俺に合わせなくていいんだぞ」って言ってきたけど、早起きは嫌いじゃなかったから、「私がそうしたいだけだから」って笑った。もしかして、あれが負担だった?

 そういえば彼は3年生になって間もない頃、突如部活を辞めてしまった。理由は「受験勉強に専念したいから」と。「それに練習もキツいし」って。彼の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、驚いた記憶がある。だって彼は野球部の4番バッター。そのポジションは、野球に疎い私でもわかる。チームで1番点をとれる人、バッティングがうまい人がなれる場所なのだ。

 もちろん当時は、野球部員全員が「やめないでくれ」「一緒に甲子園へ行こう」と反対していた。けれど結局は本人の意思を尊重して諦めた。不思議だったのが野球部顧問の石田先生だけが、何も言ってこなかったことだ。顧問であれば、チームの主力となる人にやめられたら、相当な痛手だろう。けれど先生は科学の授業で交流する以外は、彼に対して干渉さえしてこなかった。

 思えばそこからだ、彼が変わったのは。1人で過ごすことが多くなって、放課後の図書館で勉強をしていても「用事があるから先に帰る」と言って、さっさといなくなってしまった。いつもなら私を家まで送ってくれるのに。もしかしたら家の用事なのかもと思って、私も詳しくは踏み込まなかった。彼の家は父子家庭だったから。


 公民館前バス停から歩いて10分もかからない場所にある、図書館へと自然に足が向かった。

 日曜日の昼間とあって、図書館の利用者には子どもも多く、賑わっていた。静かにしなくてはいけない場所で賑わうというのもおかしな言いまわしだけど、実際図書館に入って右奥にある児童書コーナーでは、多くの子どもたちの笑い声が時折聞こえていた。

 私の足は児童書コーナーではなく、その逆の位置にある大人向けの本が置かれているコーナーへと向かった。そこには、壁に面してずらりと机が並べられていて、読書や勉強ができるスペースになっている。定期試験近くになるとここはよく満席になった。


 ここに来て、私は何をしたかったのだろう。今さらそんなことを思った。彼が別れたいと言って別れることになったのだから、こんなところに来て思い出に浸っても虚しいだけなのに……。

 周囲に席を利用する人がいないか確かめてから、空いている席に腰かけて机に頬杖をついた。それから、右を見る。そこは空席。いつもそこに彼が座っていた。

 私の利き手が左だから、彼は「腕がぶつからないようにしないとな」と言いながら、私の右に必ず座った。左利きはよく右利きの人と腕がぶつかってしまう。しかしそれは相手が自分の左にいるときに限る。だから私を気遣って、いつも右に座ってくれた。


 気遣いのできる人だった。もしかして私に気を遣いすぎて疲れてしまったとか?


 彼との思い出を振り返るたびに、自分のやるせなさに自己嫌悪になってしまう。いけないことだと思う。彼と自分の関係はもう終わったのだ。いい加減にしようと、席を立って振り向いたとき、本棚が目に入った。

 本棚の縁に、490という番号が振られている。そこには医療関係の本が置かれている。

 そういえば彼は、この辺りの席に座ることをやたらとこだわっていたっけ。医学系の大学に進みたいからなのかと思っていたけれど、彼は文系の大学に進む予定だ。

 棚に近寄って、そのうちの1冊をなんとなく手に取ってみる。病気や薬に関する本や辞典。私には縁遠い世界だ。けれど彼は、よくこのうちの何冊かを手に取って眺めていた。きっと勉強の合間の息抜きみたいなもので、一度「何の本読んでるの?」と聞いたら、「脳みそ」って簡単な答えが返ってきた。


「脳みそ?」と笑う私に、彼は「これ読んだら、暗記系の科目が強くなるかと思って」って、冗談めかして笑い返した。

 でもそういえばあのとき彼が読んでいた本。視界に入ってきて、なんとなくタイトルを読んでしまった。


 ――頭の病気


「あっ!」


 思わず大きな声をあげると、周囲にいた何人かの利用者と図書館司書から白い目でにらまれた。私は慌てて手で口を押さえて、「すみません」と謝ると走って図書館を飛び出した。

 ポケットからスマホを取り出す。LIMEから直接彼のスマホへとコールした。息を切らしながら、道を走る。バス停の前を通り過ぎて、青信号が点滅している横断歩道を突っ切って、自分の家まで続く道を最短距離で、とにかく走った。

 何度スマホを鳴らしても、彼は応じない。私はコールが切れる度に何度もかけ直した。

 お願い出て――。そんな願いを込めながら、いよいよ家の前にたどり着いたとき。そこには見知った人物がいた。


「あ」


 彼も気付いて私を見た。


「美香」

「どうして、黙ってたの?」


 まだ推測でしかないのに、自然とそんな言葉がでた。けれど彼は否定せずに「悪い」と謝って頭をさげてきた。


「春に手術することになってるんだ。東京で」

「いつからなの?」

「ヤバいなと思ったのが、3年の春から。だから部活もやめた。石田にしか話してないんだ」

「私に話してくれなかったのは、なんで?」

「言い出せなかった。もしこれが原因で別れを切り出されたらと思うと怖くて。意気地なしなんだ、悪い」

「何も知らされずにいきなり別れを切り出された私は、何? 悔しかったし、つらかったし、昨日なんて枕を涙で濡らして、夕飯も抜いちゃったんだよ? 朝ごはんだって、あんまり食べられなかったし」

「うん」


 彼はうつむいた。


「都内の大学へ行くのは、どうして? あれは嘘なの?」

「……病院から近いからってのもあったんだ。どうしても学びたいことがあったから、それも含めてだけど。本当は、美香の進む大学でもよかった。けどそうなったら、お前に病気のことがバレると思って」

「意気地なし」


 思わず罵った。顔をあげた彼は、傷ついた顔をしていた。私はそんな彼に少しずつ近づいて、正面からそっと抱きしめた。

 温かい、彼の体温が腕にこもる。


「別れを切り出されるのも怖いけど、バレるのも怖かったんでしょ? だから別れを告げた。なのに、昨日の今日で家に来るなんてどうして? もしかしてやり直させてくれってこと?」

「……うん、まあそう」

「しょうがないなぁ」


 しょうがないなぁと言ったものの、私は胸が張り裂けそうな気持ちだった。


「ずっと待ってるから。必ず連絡ちょうだいね」

「わかった。約束する」

「絶対だからね」


 念を押すようにもう一度続けると、彼は答える代わりに私の体を強く抱きしめ返してくるのだった。

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