竜使いは忘れた頃に

ろん

第1話





——ある日の夕方。

紫紺の髪をたなびかせ、女性は広い庭を抜けた。


「こんにちは。突然だけど、このお屋敷にリトという人はいるかな」


 突然の訪問に、扉の前に立っていた門衛は目をぱちくりさせる。


「リトって……まさか、リト元帥のことか?」

「元帥? ふーん、随分と出世したんだね」

「貴様、口を慎め。排除されたいか!」


 とっさに剣を構えるが、女性は飄然とした笑みを絶やさない。

 黒革のジャンパーにホットパンツという、季節感が上下で真逆の出で立ちもさることながら、門衛の警戒心は、彼女が背負っている長い槍に向けられていた。


「ああ、ごめん。実は彼と会う約束をしていてね」

「馬鹿を言うな。ここ数年、お病気で外出もろくにされていないリト様が、我々に通達もなく誰かと面会されるはずがない。ましてやお前のような若い女と……いったい、いつの約束だ」

「40年前」

「……は?」


 予想もしなかった答えに、思わず剣が下がる。

 そのとき、彼の背後にある扉がわずかに開いた。


「どうした、何を騒いでいる」

「はっ、クラード司令官」


 直立となって敬礼する門衛に対し、胸に多くの勲章を光らせた男も小さく頷く。

 こげ茶色の制服をまとう二人はもちろん、街中にいる若者ともかけ離れた格好をした女性の存在に気づき、彼は眉をひそめた。


「今日は来客の予定はなかったと思うが……どちら様かね?」

「私はエジディア。召喚士さ」

「召喚士?」

「うん。リトという人に呼ばれて来たんだけど」


 門衛が小さく咳払いをする。


「司令官、実は……」

「ああ、その先は聞こえていた。我々の聞き違いでなければ、君は40年前に、現在のリト元帥と会う約束をした、というのかね?」

「うん。その時は彼も普通の兵士だったけど」


 40年はおろか、女性はその半分程度の年齢に見える。

 微笑みながらもまるで嘘を感じさせない紫色の瞳を前に、司令官と呼ばれた男は溜め息をつく。


「そこで待っていなさい」


 やや呆れたように言い残し、彼は扉の向こうへと消えた。

 しかし、それから数分後。同じ扉から再び顔を出したとき、その面持ちはひどく神妙なものに変わっていた。


「確認した。リト元帥——いや、父上が至急、貴女をお連れしろとのことだ」


 そういうことならばと、門衛は素直に剣をしまい、扉を開けて彼女を迎え入れようとする。

 その動きを男が制止した。


「いや、私がお連れしよう。エジディア殿、どうぞこちらに」

「はいはい」


 その後しばらく、二人の間に会話はなかった。

 招き入れた男の方も、まだ彼女を正式な「客人」として認めたわけではないらしい。

 階段と廊下を抜けると、ひときわ豪奢な扉の前にたどり着く。

 そこに立っていたのは正面玄関と同じ、軍服姿の守衛だ。


「申し訳ありません。この先はリト元帥の病室につき、そちらの武器は私にお預けください」

「武器? ああ、この杖ね」


 銀色の派手な装飾が施され、先端には十字型の刃が付いたそれを、彼女はジャンパーの背中からすっと引き抜く。


「なくさないでね」

「後ほどお返しします。どうぞお入りください」


 守衛は杖を受け取り、二人を扉の奥にいざなう。

 室内は広く、また、壁には額入りの絵画や勲章がずらりと飾られている。


 そんな中、入ってきた彼女の姿を見るなり、窓際のベッドに横たわっていた高齢の男性が声をあげた。


「おお、エジディア……本当に、本当にあなたなのか……」

「久しぶり。遅くなってすまなかったね」


 老人が弱々しく持ち上げた手を、白く細い手がやさしく包む。


「奇跡のようだ……私が老い、病に伏し、いまや死を待つばかりだというのに……この手も、髪の色も、目の輝きも……貴女は何一つ変わっていない」


 唇をわなわなと震わせながら、彼は申し訳なさそうに頭を垂れる。


「言いにくいが……不老を授ける『竜の愛』など、今日まで信じていなかった私を許しておくれ」

「これも病気みたいなものさ。それに、時に逆らわない貴方は美しいよ」


 その言葉を聞き、老人——リトはかすれた声で笑う。


「貴女を呼んだのは……そう、もう四十年も前だったかな。戦場のど真ん中だった。四方八方を敵に囲まれ、投降か自決しか道が残されていなかった私は……迷わず後者を選ぶつもりだった」

「大変だったね」

「……そのとき、いつも胸ポケットに入れている物を思い出した。私は青い竜の鱗を取り出し、一縷の望みをかけて、それをナイフの柄で叩き割った。何か困ったことがあればそれを割り、自分を呼べと、貴女が別れの日に託してくれた鱗だ。しかし……あなたは来てくれなかった」

「うん。いま来たよ」


 人によっては無愛想と捉えかねない態度さえ、彼には郷愁の源泉として感じられるようだ。


「ありがとう……だがもう、こんな老いぼれに価値などない。今はどうか代わりに、そこにいる息子の願いを聞いてはもらえないだろうか。それが私の……最後の願いだ」


 腕組みをして壁によりかかっている息子——クラードを指し、リトは絞り出すような声で言った。

 エジディアはもう一方の手も彼の手に重ねる。


「貴方の願い、しかと受け取ったよ。でもその前にひとつ……聞いておきたいことがあるんだ」

「なんなりと、なんなりと」


 リトはうっすらと涙を浮かべ、心の底から安堵したような表情を見せる。

 しかしエジディアの微笑は、どこか妖しげだった。


「貴方——何か私に謝らなきゃいけないこと、ない?」


 老人の朗らかな顔が凍りつく。

 反射的に抱擁をふりほどこうとした彼の手を、彼女はにこにこと笑いながら、さらに固く握りしめる。


「うっ……うああ……っ」


 ただでさえ震えていたリトの身体が、突然、大きく痙攣し始めた。

 瞳孔が開き、呼吸がシューシューと不安定になる。


「父上!」


 クラードは駆け寄り、続けざまに大声で「ドクター!」と叫んだ。

 白衣をまとった中年男性が部屋に駆け込んできたのは、それから二十秒も経たないうちだった。


「チアノーゼだ! 君、そこをどいて!」


 両手を顔の横に持っていき、エジディアは後ろに退いた。

 顔を青紫色に染めたリトへの対応はしばらく続き、誰もがその医師の格闘ぶりを見守っていた。開け放たれた扉の向こうからも、数人の兵士が心配そうに様子を窺っている。


 五分とかからず、彼の孤独な闘いは終わった。

 はーっと深いため息をつき、医師はそっと彼の顔を布で覆う。


「……ご臨終です」


 張りつめていた空気が、その一言で弛緩していく。クラードは静かに踵を返した。


「エジディア殿。私と一緒に来てほしい。ドクター、後は任せる」


 父親を喪ったばかりとは思えないほど冷静な口調で、彼はエジディアとともに部屋を後にした——。




「いいのかい?」


 守衛から返却された杖を背中に戻しながら、エジディアがそう尋ねる。


「父の葬儀に出ている時間はない。君もご存じかもしれないが、この国は現在、隣国との戦時下にあるのでね。私も司令官として、すぐ本陣に戻らねば」

「あらら、貴方も苦労してるね」


 軍人という生き物は、動き出すのが急なら止まるのも急らしい。勢いあまってその背中にぶつかったエジディアが「おっと」と唸る。


「君は……本当に召喚士なのか?」

「もう、急に止まらないでよ。そう言ってるじゃないか」

「いやはや、それは失礼。君の個性的な装いを見ると、到底そうも思えなくてね」

「その割には、ずいぶんと簡単に迎え入れてくれたよね。お父上に確認するまでもなく、私を追い出そうとは思わなかったの?」

「あの戦場の話は、私も小さい頃から聞かされていたのでね。正直、戦闘中のストレスからくる父の妄想だと思っていたが……まさか真実だったとは」


 しばし黙考した後、クラードはくるりと彼女の方を向く。


「よろしい! 君の話が本当で、父の遺言通り、私の願いを聞いてくれるというなら、ぜひ我が軍に力を貸していただきたい」

「お安い御用さ。朝食においしいパンケーキを用意してくれればね」


 それこそ造作もないと言わんばかりに笑い、彼は右手をさし出した。


「だいぶ、自己紹介が遅くなってしまったね。私の名前はクラードだ。マディヤ国軍総司令官……と言いたいところだが、この肩書もおそらく今日までだろう。職務内容に大きな違いはないが、父が亡くなった以上、私は明日にも元帥の地位に就くことになる」

「ふぅん」


 あまりその点に興味はなさそうだが、エジディアも軽く握手に応える。


「それで、私はどこへ行けばいいのかな?」

「いきなりで申し訳ないが、今、もっとも増援が必要な前線に参加してもらいたい。北部第三方面軍、第七連隊。少数精鋭を売りに前線を押し上げていた部隊だが、敵の飽和攻撃にさらされ、じりじりと後退を余儀なくされている。お互いに市街地が近く、このポイントの死守ないし突破こそ、この戦争の分水嶺といってもいい……」


 のべつ幕なしに口を動かしてから、クラードははっと言葉を止めた。


「……もちろん、詳しいことは誰かに説明させるが……」

「ふふっ」


 エジディアは無邪気に笑う。


「不要さ。場所がどこだろうと、要は敵を一掃すればいいんでしょ?」

「それはそうだが……」

「まあ、明日からでいいよね。今日はこの家を探し当てるだけでも苦労したんだ」


 悠然とあくびを飛ばし、彼女はクラードを追い越していく。仮にも戦争への参加を求められたばかりとは思えないその態度に、クラードはもう一度、彼女が信用に足る人物かどうか自問したように見えたが、結論は変わらなかった。


「フラン、こっちに来てくれ」






——翌日。

 左の地平線から顔を出した朝陽が、彼女のしなやかな脚を照らし上げる。荒野を走る風に逆らわない髪と同様、その口から吐かれた白い息は、一筋の雲となって後ろに流れていく。


「今日も晴れそうだね」


 一方、その背後にある塹壕では、突然戦地に舞い降りた謎の美女の正体について、手負いの男たちが考察に興じていた。

 

「……召喚士ってあれだろ? 大聖堂で派手な衣装を着て、たまの儀式であり得ない色のウサギとか蛇とか出すやつだろ」

「あれ、九割近く手品らしいぞ。ウサギも直接色を塗ってるって、知り合いから直接聞いた」

「マジかよ。それじゃあの子、何しに来たんだ」

「そういう設定の慰安婦じゃねーの? 何はともあれ、こんなむさ苦しい場所には似つかわしくないくらい良い女だよな」


 疑いと好奇の声が気ままに飛び交う。劣勢に置かれた兵士たちのストレスの受け皿として、彼女はまさに格好の的だった。


「エジディア殿!」

「ん?」


 塹壕内から張り上げられる声に、エジディアは足元をふり返る。


「まだそちらに出てはいけません! 敵に見つかります!」

「心配ないよ。なんたって、零時から五時半まではお互いに攻撃禁止なんでしょ? ずいぶん紳士的な戦争だよね」

「それは法に過ぎません! 実際、朝食中に喉を射られた兵士もおります!」

「……それは困るな。私も大食いだけど、口は二つもいらないからね」


 エジディアは納得した様子で、見覚えのある兵士の目の前に飛び降りる。


「おや、誰かと思えば」


 昨日、玄関で彼女に剣を構えた門衛だった。

 妙にばつが悪い表情をしている。


「……エジディア殿、その節はとんだご無礼を。まさか故・リト様のご旧友とは夢にも思わず……」

「それが普通さ。気にすることないよ」


 優しさや気遣いではなく、エジディアは本当に何とも思っていないのだろう。

うつむき気味に話す門衛の横を、彼女が素通りしようした、その時だった。


「くそっ、こんな喋り方、やってられるか!」


 叩きつけられた兜が、塹壕の底でくるくると駒のように回転する。

彼は地を蹴り、エジディアの進路を塞ぐように立ちはだかった。


「いいか、女! お前はいささか興味もない話だろうけどな。こちとら開戦の噂を聞いてからというもの、コネとカネを駆使して、一ヶ月前にようやく、あの家の前に突っ立ってるだけで給料がもらえる『大当たりくじ』を引いたばかりだったんだ! ところがどうだ……今日、昇進したクラード新元帥の司令官時代の最後の命令はな、『フラン、最初に言葉を交わした者として、明日からエジディア殿のお世話をするように』だとよ——お前さえ来なけりゃ、俺はこんな危険な前線に来る必要はなかったんだ!」


 元・門衛——フランは、数秒前とは別人のような口調でまくし立てる。

その口から発せられた一言一句を噛みしめるような沈黙を経て、エジディアはゆっくりと頭を下げた。


「申し訳ない。道連れにしてしまったことは素直に謝るよ。参考までに聞くけど、今朝、私の枕元にアカシアハニー付きのパンケーキを置いてくれたのは貴方かい?」

 彼は目をぱちくりさせる。

昨日、初めて彼女に話しかけられた時と同じように。


「……他に誰がやるか。つくづく残念だが、お前を餓死させた日には俺の首も飛ぶんだよ!」

「ふふっ、ありがとう。そんな怨念が込められているとは思えないほど美味しかったよ」


 返す刀で感謝を告げられ、フランは若干たじろいだ。

 すっと上体を起こし、その言葉にふさわしい笑顔を浮かべたまま、エジディアは背中の杖に手をかける。


「というわけで、これはほんのお礼さ」

「え?」


 次の瞬間、真横から二人のやり取りを見ていた者たちは仰天する。彼らにはきっと、エジディアがフランの脳天を槍で貫いたように見えただろうし、フラン自身もそう思ったに違いない。


 キンッ——と甲高い音が彼の耳元で響く。直後、エジディアの突き出した切っ先によって軌道を変えられた矢が、塹壕内の壁に深く突き刺さった。


「……貴方の言うとおり。彼らはあまり『紳士的』ではないようだね」

 

 すとん、とフランは腰を抜かした。

 それを機に周囲も慌ただしくなる。弓を取る者、のろしを上げる者、朝食をかき込んで兜を着ける者。エジディアの脚をきっかけに、おそろしく下品な話題で盛り上がっていた連中でさえ、てきぱきと戦闘の準備を整えていく。


「お前……いったい……」


 遅れを取りながらも立ち上がったフランに、エジディアは微笑むばかりだった。

 その後、兵士たちが上り下りしている木製のはしごを軽々と飛びこえ、彼女は再び塹壕の外に出る。


「おい貴様! 攻撃のタイミングは私が指示する。勝手に動くんじゃない!」


 現場を仕切っている上官らしき男が、やや離れた位置から彼女を呼び止める。


「……私より前に出るのはおすすめしないよ。不特定多数の命を保証できるほど、私も『彼』も器用じゃないしね」

「何と言った? おい、止まれ!」


 喚き散らしている上官には一瞥も与えず、エジディアは塹壕からどんどん離れていく。その長い髪はいつしか逆立ち、鉱石に光を当てたような煌きを放っていた。自らの背丈ほどもある銀杖を掲げ、近づいてくる敵兵の波を静かに見据えながら、彼女は静かに口を開く。


「良い朝だけど、すこし騒がしいかな」


 太陽光の反射では説明のつかない、強烈なブルーの光が杖からほとばしる。切っ先が数メートル先の地面を示し、そこに巨大な幾何学模様が描き出されたのも束の間、現れたのは、近くの櫓を上回る大きさの生き物だった。


 十メートルはあるだろうか。

 四つ足で、並の図鑑に載っている生物とは一線を画す蒼い鱗。


「さ、いっておいで」


 大地を揺るがすほどの咆哮に、敵の歩みもぴたりと止まる。

彼らにしてみれば、朝靄の中を突っ込んでくるその姿は蜃気楼にも見えただろう。


 ——最初の一人が宙を舞うまでは。


「う、うわああっ!」


 前足ですくい上げられた敵兵の悲鳴がこだまする中、その身は竜の口に受け止められ、ごくりと一呑みにされる。

一瞬の出来事に、敵も味方も凍りつく。


「前線は私が請け負うよ。討ち漏らしたぶんは貴方たちでよろしく」


 敵を盤上の駒のようになぎ払い、四方八方に青い炎を噴き回っている竜を横目に、エジディアは後ろにそう告げた。


 その言葉に最初に反応したのはフランだった。兜をかぶり、塹壕から飛び出していく。


「こ、攻撃開始だ! ただし、あの竜の行動範囲には決して入らないように!」


 上官も後追いで指示を出す。

 エジディアはにやりと笑い、まるで休日に洒落た通りを歩くかのような足取りで、一人、ゆっくりと前線を押し上げていった。



——



「お前か……この竜を操っているのは」

「さあ。そうかもしれないね」


 両国の国名とともに『国境線』と表示された立て札も、いまや無残にへし折られている。

 敵の大多数が竜の足止めに加わることを余儀なくされる中、エジディアはたった一人の兵士と向き合っていた。


「あの化け物以外、こんなところまで入ってきたのはお前だけだ。他に誰がいる!」


 兵士はそう叫ぶと、フラン達の物とは明らかに製法が異なる剣を一閃させる。

 エジディアはそれをひらりとかわした。


「……召喚士ごときがちょこまかと」

「おや、うれしいね。この国に来てからというもの、一目で私を召喚士だと信じてくれたのは貴方が初めてだよ」


 折れた立て札を一瞥するエジディア。


「……撤回しよう。ここは『ぎりぎり』貴方たちの国だったね」

「舐めくさりやがって。痛みでわからせてやる!」


 兵士は声を荒らげ、下段の構えから一気に間合いを詰めるが、鋭利な刃が目前に迫ってなお、彼女の微笑が崩れることはなかった。

 二度と笑えなくしてやる……刹那、兵士はそんなことを意気込んだに違いないが、ほぼ時を同じくして、彼の視界は暗闇に包まれる。


「むぐう…っ!」

「安心していいよ。『痛み』なんて、私はこの世で最も不要だと思っているからね」


 ごくりっ。

 他愛もない会話が、竜が来るまでの彼女の時間稼ぎだったと気づく頃にはもう、兵士の身体はその喉へとすべり落ちていた。

 予告通り、何の苦痛も感じなかっただろう。


「エジディア、危ない!」

「ん?」


 持ち主を失った剣が、竜の口から彼女の頭めがけてまっすぐ落ちてくる。自前の剣でそれを打ち払い、エジディアよりも一歩先の前線に躍り出たのは、フランだった。


「……おかしいな。貴方たちにはバックアップをお願いしたんだけど」

「わかりました、なんて言った覚えはない。俺はお前の『世話係』を命じられているだけだ」

「へえ。私を守ってくれるのかい?」

「……解釈は自由だ」


 竜を近くに呼んだことで、二人の周りにも続々と敵兵が集まってくる。


「囲まれちゃったね。本当に大丈夫?」

「……パンケーキは二枚重ねだったはずだ。俺はまだ一枚分しか返してもらっていない」

「ふふっ、オーケー。明日の朝が何枚になるか楽しみだよ」


 エジディアの杖の動きに合わせて、巨大な足が包囲網の半分を取りのぞく。

 掻いくぐってきた敵の攻撃は杖で流し、受けきれなくなったところで竜に再び蹴散らしてもらう——独特とも異様ともつかない彼女の闘いぶりを見て、フランはあることに気付く。


(……笑ってる?)


 エジディアは間違いなく闘いを愉しんでいた。

その笑みは、戦闘狂や殺人鬼のそれとはまったく違う。


 この戦場で最も多くの敵を撃破しているというのに、彼女の杖の先端にある十字型の刃には、まだ一滴の血も付いていない。

 まるで自身がどれだけ竜を巧みに操れるか、自らに課しているかのように。




[newpage]




 ——およそ十時間後。元帥室にて。


「戦果だ! 素晴らしい! 実に!」


 語順がめちゃくちゃになるほど興奮した様子のクラードを前に、フランはぴんと背筋を張っていた。

 隣にいるエジディアは退屈そうだ。


「エジディア殿、もはや感謝を通り越して驚きに値する。まさかあの難しい地形が、たった一日で攻略できるとは思ってもいなかった!」

「フラン、今日の地形って覚えてる?」

「……元帥殿の前だぞ」


 フランの額を、冷や汗が伝う。


「はは、構わないさ。私にもエジディア殿のような実力があれば、いちいち地図と睨み合うことなく作戦を進められるのだがな」


 自虐を飛ばした後、クラードは彼の方を向いた。


「フラン、君もよくエジディア殿を守ってくれた。父が亡くなった以上、もはやあの屋敷に門衛を置く意味はないのだが……」


 その視線が一緒、エジディアの顔をちらりと窺う。


「……どうだろう。あの屋敷の南に、父の遺品や書類を収めた倉庫がある。君には当分、そこの番を頼みたいのだが」

「はっ、承知いたしました!」

「うむ、では今夜より任せる——エジディア殿、今日はゆっくり休んでくれたまえ」


 二人は元帥室を後にした。

 先に口を開いたのはエジディアだった。


「……よかったね。これで望み通り、君は前線から離れられるわけだ」

「……申し訳なかった」


 会話として不自然極まりないが、フランはそう切り返す。


「それは、何に対する謝罪かな?」

「今朝のことだ。独りよがりな理由であんたを怒鳴ってしまったからな」

「ああ、あれね。別に気にしてないさ」


 エジディアの素っ気なさゆえか、己の情けなさゆえか。フランはフッと小さく噴き出した。


「あんたを守った……? とんでもない。今日一日、おんぶにだっこだったのは俺の方だ。結局はパンケーキを焼くくらいしか、俺があんたに出来ることはないんだろうな」

「……その点は同感だね。だから守衛に戻っても、朝食だけは貴方に用意してもらいたいな」


 もう一度噴き出すフラン。その笑みはさっきとは随分異なっていた。


「ああ、喜んで。エジディア殿」

「エジディアでいいよ。戦闘中は呼び捨てにされてたし」

「それは……」

「そういえば『おい、女』なんてのもあったね」

「……もう許してくれ」


 しばらく廊下を進んでいると、扉から一人の男が出てくる。

 精肉業者のように大きなエプロンを付け、白いバンダナを口に巻いていたが、フランを視界に捉えた瞬間の驚きは、その目に分かりやすく表れていた。


「フラン? お前、前線で死んだんじゃなかったか?」

「……ジルダ。俺は『前線送り』になっただけだ。勝手に殺すな」


 ジルダという男はけらけらと笑い、革製の手袋を付けた手でフランとハイタッチをする。早速、その視線は隣のエジディアへと移った。


「そんなべっぴんを連れてどうした。元帥に結婚報告でもしてきたのか?」

「んな訳あるか……エジディア、こちらは同僚のジルダだ。ジルダ、こちらは……」

「ちょっと待て」


 半笑いを浮かべ、彼は両手を前に突き出す。


「エジディアって……まさか今日、北の難局を一人で切り拓いたとかいう英雄の名前か? もし彼女がそうなら……お前なんかが呼び捨てにしちゃだめだろ」

「さっきその許可を得たばかりさ。もちろんお前は対象外だがな」


 ぐぬぬ、と適当に悔しがる素振りを見せつつ、ジルダの目はしっかりとエジディアの風貌を観察していた。万夫不当の実力で敵を総崩れさせたという噂と、目の前で穏やかな笑みを浮かべている、若く華奢な女性——その二点を結びつける「何か」を見つけたいという気持ちが、彼の挙動不審な動きからにじみ出ている。


「さて、俺の復帰祝いに一杯付き合ってほしいところだが……お前、これから仕事か?」


 ジルダの視線が杖に留まりかけたところで、フランが話を変えた。


「ああ……見ての通りだ。今回の相手は二人なんだが、なんせ昨日から口を割っていなくてな。今夜も長丁場になるだろう」

「何の話だい?」


 蚊帳の外が退屈になったのか、エジディアも会話に割って入る。


「エジディア、ジルダは尋問官だ。捕虜を縛り上げて情報を吐かせるのがこいつの仕事さ」

「へえ……」


 今度は、エジディアがジルダの格好をまじまじと窺う番だった。フランの説明に耳を傾けながら、ゴム製のズボン、革のエプロンと、あらゆる水分を弾くことに特化したような服装を眺め、やがて得心したように笑う。


「少し興味があるな。私もついていっていいかい?」


 えっ、とフランとジルダが同時に反応する。


「ご見学、ということでしょうか? 私は構いませんが……あまり気分が優れるものではありませんよ。お疲れでしょうし、今日はもうお休みになった方が……」

「ふふ、お気遣いありがとう。でも心配無用さ。寝るにはまだ早いし、特に疲れてもいないからね」

「そ、そうですか……」

 

 単騎で一個師団級の活躍を見せた直後の人物とは思えない言動に、ジルダは戸惑いを隠せない。バンダナの上から覗く目に、少しばかり疑いの色が映る。


「おや、貴方も来るのかい?」

「俺の新任務は深夜からだからな。それまではあんたの世話をするさ」


 西陽に照らされる中、ジルダに先導してもらい、二人は司令部を後にした。軍の広い敷地内を南へと渡り、人気のない場所にぽつんと建てられた施設に入る。

年季の入ったレンガ造りの建物の中には、さび付いた檻が一定間隔で並び、鉄と糞便の匂いが充満していた。足を踏み入れてまもなく、エジディアはやや顔をしかめ、フランは両手で鼻を覆う。


「よく眠れたか?」


 ジルダは数分前とはうって変わり、どすの効いた声を牢内に響かせた。壁のランプに火が入ると、亡霊のような男性の顔が二つ、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる。一人は中肉中背、ジルダやフランより若干しわの多い年代で、木製のイスから今にも滑り落ちそうだったが、もう一人、見た目だけならエジディアと同年代の青年は、麻縄で縛り付けられながらもなんとか背もたれに身を預けていた。


「まあ、あれだけ痛めつけた後にすやすやと安眠されたんじゃ、俺の首が危ういんだがな」


 壁や床に残る血痕が、前回この場所で行われた「尋問」の内容を物語っている。

 ジルダはゆっくりとポケットからナイフを取り出した。


「……昨日のやつは切れ味が良すぎた。厨房の隅で何年も忘れ去られていたナマクラの方が、お前らの口をこじ開けるためにはちょうどいい」


 赤錆をまとった刃が、既に傷まみれの中年男性の皮膚に押し当てられる。真新しいカサブタと交差するように——


「待って」


 エジディアが口を開く。


「何を聞き出そうとしてるのか知らないけど、得られる情報が血の量に比例するとは限らないよ。彼らほど尋問慣れしてる相手なら、なおさらね」


 ジルダは眉間にしわを寄せた。


「……なぜ、彼らが尋問に慣れていると?」

「彼の背もたれに触ってごらん」


 座っているというよりは、尾てい骨を座面の前方に載せているだけの中年男性を押しのけ、ジルダはその指示に従った。決して強く押された訳でもないのに、背もたれは椅子から外れ、床に転がる。


「じゃあ、今度は彼の右手を調べてみて……慎重にね」


 エジディアに言われるがまま、ジルダは男の握り拳を包丁の柄でこじ開けた。キンッ、と高い音を立ててその中からこぼれ落ちたのは、包丁よりよっぽど多くの錆に覆われた「釘」だった。


「ランプがついた時、彼が右手に何かを隠すのが見えたよ。おそらくは椅子の脚と背もたれの継ぎ目から、一日がかりで抜いたんだろうね」


 それはまさに、男が不自然な体勢を取っていた理由でもあった。

 エジディアは続ける。


「大方、今回はフランと私の姿を見て諦めたんだろうけど……貴方一人だったら反撃されてたかもしれないね」

「助言に感謝します——お前、今日は覚悟しておけよ」


 男の手首を切り落としかねない気迫を露わに、ジルダは包丁を握り直した。

 彼女はそれを再び諫める。

 

「まあまあ、捕虜にだって抵抗する権利はあるさ。それに釘が飛び出た椅子を使うなんて、実質、こちらが武器を与えたようなものだよ?」

「そ、それは……」

「いいよ。私に任せて」


 弁明に窮しているジルダの横を過ぎ、エジディアは二人の前で両手を腰に置いた。


「こんばんは。君たち、二日間もこの牢に閉じ込められてるんだってね。ここは空気も淀んでるし……そろそろ外に出たいんじゃない?」

「「……」」

「ちなみに、私は一刻も早く出たい」

「「……」」

「よし、決まりだ」

「エ、エジディア殿……?」


 困惑しているジルダをよそに、エジディアは沈黙する捕虜たちの背後に回り、彼らを立ち上がらせる。


「いいから。何かあればフランが全責任を」

「おい」

「……冗談だよ。でもこの仕事が早く済めば、貴方も気兼ねなくフランのお祝いができるでしょ?」


 彼の方は「まさかそれが理由?」とでも言いたげだ。それでも、初の対面から三十分も経っていない相手に自分の仕事を預けることに不安を感じているのか、その喉は唸っている。


 エジディアはにこりと微笑んだ。


「縄まで外すとは言わないさ。ちょっとした気分転換だよ」


 ——


 捕虜の二人を先頭に、一同は尋問所の外へと出る。すでに辺りはとっぷりと日が落ちており、ジルダはランプを外に持ち出していた。


「最近、暮れが早いよね。すこし肌寒くなってきたし」


 夜風に晒された長い脚を見て、一歩退いた位置にいるフランが小声で「そうだろうよ」とつぶやく。地獄耳らしきエジディアがゆっくりと振り返ったため、彼は猛スピードで手を動かし、先を促した。


「でも、あの部屋よりは大分マシかな。貴方たちだって、肺に入れる空気は新鮮な方がいいでしょう? 今のうちに言いたいことがあれば——」


 エジディアはそこで言葉を折った。

 寒空の下に出てもなお、二人の表情に一切変化がないことを確認したからだ。


「ふふっ、オッケー。フラン、コイン持ってる? 一枚欲しいんだけど」

「ああ……あるぞ」


 フランは軍服の胸ポケットをまさぐり、ぴかぴかの銅貨をエジディアに投げて寄越す。表に国王の横顔、裏に「1」という数字が刻まれたそれを、彼女は左の親指で弾き上げ、手の甲に落としたところをすかさず右手で覆った。


「ヘッド・オア・テール。とりあえずどちらか答えてもらおうかな。もし黙っているなら……こっちで勝手に決めちゃうけど」


 穏やかな問いかけにも、二人は沈黙を貫き続ける。


「いやはや、敬服に値するよ。それじゃあ貴方が表だ」


 二十代らしき青年の方を一瞥してから、エジディアは右手を外した。ジルダのランプだけが付近を照らす中、白い肌に鎮座した国王の横顔は、妙に生々しいものだった。


「あらら、運がないね。まだ若いのに」


 エジディアは不敵な笑みとともにコインをフランに投げ返したが、その放物線が彼の手中に届く頃にはもう、彼女はジャンパーから杖を抜いていた。十字刃の先端にぼんやりとした光が集まり、重力に逆らい始めた彼女の髪も、ランプに匹敵する光源として紫色の輝きを帯びる。


「できるだけ、深く息を吸うことをおすすめするよ」


 その後に起こったことを理解できた者の順番は、彼女と知り合った順番に完全に一致していた。

ただ一人、新鮮な空気とは程遠い場所に送られた青年を除いて。


「——それで、何を聞き出したいんだっけ」


 棒立ちになっているジルダと、後ろ手に縛られたまま尻もちをついている中年の捕虜。

前者の答えを待つ方が時間がかかると思ったのか、エジディアは捕虜の前まで歩き、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「ねえ、あの人に何を聞かれてたの? 答えだけ教えてくれてもいいよ」


 口調は柔らかく、笑顔も涼しい。

 だが彼女の目に宿る「無関心」という光は、むき出しの殺意よりよほど恐ろしいものだった。初対面の捕虜でさえ、彼女が自分の答えに何の興味も持っていないことは分かっただろう。


 相手を透かした先の地面を見るように——もしくは草木にでも語りかけるかのように、その瞳はあらゆる執着を欠いていた。


「おしえて?」


 エジディアがわずかに声を低くした時、頭上で竜がげっぷをする。

 男は観念したように口を開いた。単なる言葉の羅列だったが、彼女にはそれで十分だったようだ。


「……もういいよ。彼を出してあげて」


 その指示を受けて、竜は一回、二回とえずいた。三回目に突入する直前、巨大な体躯の中心を小さな膨らみが駆け上がり、粘液まみれとなった青年が地面に吐き出される。

 彼は気を失っており、薄い下着のような衣服には穴が空き、皮膚はほんのりと赤みを帯びていた。


「貴方が素直な人でよかったよ。私もこの子に『胃液を出すな』とまでは言えなくてね」


 お役御免となった竜は光に包まれ、溶けるように地面へと消えていく。その場に立ち込めていた悪臭も、幸い、夜風が瞬く間にさらっていった。


「こんな感じでどうかな、ジルダさん」


 杖を背中にしまってから、エジディアは振り返りざまに問いかけた。竜が消えた位置から彼女の顔へと視線を移し、ジルダは背筋を正す。


「少しは信用してもらえたかな?」

「は、はい……」

「よかった。噂は五割増しでいいよ」


 彼の肩にぽんと手を置き、通りすぎていくエジディア。宿舎の方へ戻っていく彼女の背中を食い入るように見つめていたジルダに、フランは意気揚々と話しかける。


「どうだ。脳天をかち割られた気分だろ」

「ああ……やっぱり今日はお前が奢れ」

「俺のおかえり会だろ?」

「予定変更だ。お前は、俺に、極めて、良質な気付け薬を提供する義務がある」


 真に迫る口調に、フランは首を縦に振るしかなかった。




[newpage]




 直上に月が輝いている。

 四時間前より一段と冷えた風に頬を撫でられ、フランは盛大にくしゃみをした。


「う〜い。エジディア?」


 月明かりがあろうとなかろうと、そのシルエットは容易く判別できる。

 やあ、と軽く手を振りながら、彼女はすぐ近くまで歩み寄ってきた。


「お勤めご苦労様。新しい持ち場はどう?」

「ああ、引き受けてから気づいたよ。前線あがりの人間を夜勤に充てるなんて、やっぱりあの元帥はどうかしてる」

「私もそう思ったんだけどね。でも、夜勤前に飲酒できる貴方もなかなかだよ?」


 ぷんとしたアルコールの臭いに苦笑いを浮かべ、エジディアはわざとらしく手を煽った。


「はん、これが飲まずにやってられるか! ジルダはとっくに潰れて部屋に戻ったけど、俺は朝までにこいつを空にしてやる」


 怪気炎を上げ、腰の高さほどもある酒樽を蹴りつけるフラン。その衝撃で自らバランスを崩し、倒れかけたところをエジディアに支えられる。


「おっと……だいぶ酔ってるみたいだ。こんな時に不心得者が現れたらどうするんだい?」

「こんなボロ倉庫にある物なんてたかが知れてる。亡くなったリト元帥が集めていた絵画や骨董品、ソルジャー時代に使ってた武器とか……あれっ、意外に高値がつきそうな物ばかりだな」


 そうでしょ、と応えたエジディアに対し、フランは露骨に顔をしかめる。


「——いいさ、天下のエジディア殿が来てくれた以上、俺は今、この国で最も安全な場所にいると言ってもいい」

「おやおや。ここに来てまだ一日しか経ってないのに、随分と信用してくれたんだね」

「大事なのは時間じゃない。終始足手まといだったとはいえ、俺があんたと戦場を共にしたことは事実だからな」


 まるで何十年も前の出来事を懐かしむような口振りだった。


「これでも感謝してるのさ——ありがとう」

「……」


 笑顔を足し引きすることなく、エジディアは少しだけ目線をずらした。


「よーし、あんたも飲め! ジルダと同じ目に遭わせてやるからよ!」

「飲み比べかい? 私、結構強いよ」

「そうこなくっちゃ。待ってろ、どこかにあいつが使ってたグラスが……」


 フランは後ろを向き、やや屈んでひさしの下の暗闇をまさぐり始めた。

 しかし、グラスは見当たらなかった。


「すまん。多分そっちに……」


 頼りない目を必死に瞬かせながら、フランは再びエジディアの方を向く。

 次の瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、眼前数センチの距離に迫ったエジディアの顔だった。


「なっ」


 長い杖の柄が、彼の鳩尾を一突きにする。


 世界がぐらりと揺れ、フランの身体はくの字に折れ曲がった。

 ダメージを受けた腹に血が集まり、全身が燃えるように熱くなる中、胃に収めた酒はことごとく逆流し、地面に小さな池をつくる。


「エジ……なんで……」


 横向きに倒れ、胎児のように丸くなったフランの傍らを通りすぎる時、彼女の口は「ごめんね」と言っているように見えた。


 脳が求める最低限の血液すら奪われ、彼は光を失った。




——




 大小さまざまな箱に入れられた荷物が、パズルのように右へ左へと動かされていく。中には相当重い物もあるようだが、それを抱える白い腕に疲労の色は見られない。


 その手はやがて、奥底から異様に長い箱を引っ張りだした。箱の長さはちょうど、背中にある杖と同じくらいだ。


 金属製のロックを外し、蓋を開く。

 中に入っているそれを見下ろした瞬間、彼女はくすりと笑った。



——こんばんは。


 低い声がして振り返ると、入口にクラードが立っていた。エジディアの手元にある物と同じ長い箱を脇に抱え、腰には装飾を凝らした二本の剣を下げている。


「今日はゆっくり休んでくれといったはずだが……こんな時間に修練かね?」


 エジディアは何も答えない。


「扉の前でフランが倒れていた。君が寝かしつけてくれたのかね?」

「お疲れのようだったしね。交渉しても『ここは通さない』の一点張りだったから、少し眠ってもらったんだよ」

「なるほど……任務に忠実な兵士のためにも、今後は労働環境の改善に努めるとしよう。それで、君はここで何を?」


 クラードの問いに、彼女は口笛を吹く。


「まったく、人が悪いな。貴方が私を呼んだんでしょう? 今日の夕方、フランにここの警備を命じたときに」

「察しのいい女性は好感に値するよ」

「ふふ、なのにこんな仕打ちを? 貴方もなかなかのサディストだね」


 先ほど開けた長い箱の中から、エジディアは一枚の紙を取り出した。流麗な字で「ようこそ」と書かれたそれをクシャクシャと丸め、彼女はそれをジャンパーのポケットに入れる。


「クラードさん。貴方もとっくに『察して』くれてるだろうだけど——私、落とし物を探してるんだ」

「敷地内の拾得物はすべて管理部に届くようになっている。明日にもそちらを確認してみるといい」

「ふーん、ありがとう。念のために聞くけど、その部署は40年前にもあったのかな?」


 エジディアは手を口元に寄せ、首を傾ける。皮肉めいた質問に対する沈黙を負けとするなら、今回は間違いなく彼女の勝利だった。

 その目はやがて、クラードの脇に抱えられている謎の箱へと向かう。


「それ、随分と長い箱だね。何が入ってるの」

「エジディア殿」


 箱をゆっくりと床の上に置き、クラードは剣を抜いた。よく手入れされた両刃が、ガラス窓から刺し込んでくる月光に煌めく。


「この場でひとつ、お手合わせ願いたい」

「うん、別にいいよ。条件は?」

「どちらか一方が口を利けなくなるまで、というのはどうかな」

「……曖昧だね。私は構わないけど」


 エジディアは冷静に、しまったばかりの杖をもう一度引き抜く。クラードの速攻は、まさにその腰が低くなるかならないかの内だった。斬りかかる直前でわざわざ身を一回転させ、遠心力を加えたその一撃を、彼女は杖でたやすく受け流す。




 ——たった一分間の剣戟。

 しかし真剣を交える者達にとって、その時間はおそろしく長いものだ。

 次に口を開いたとき、エジディアは自分の舌が乾いているのを感じた。


「一対一は苦手なんだけどな」

「ほう……それにしては手加減が露骨すぎやしないかね」

 十字の刃を活かすことなく、せっかくの槍を棒きれのように振るう彼女の闘いぶりが気に食わないのか、クラードは少し不満そうだ。

「おっと、バレてたか。でも、貴方の剣術は本物だと思うよ。さすが元帥様」

「お褒めに預かり光栄だよ。お礼にこういうのはいかがかな?」


 クラードは低く笑い、二本目の剣を抜いた。対するエジディアは柄の中心を持ち、杖の両端でそれらを受け止める。


 その器用さが彼女の隙を生んだ。

 刹那、クラードはかかとを持ち上げ、身を半倒しにしてエジディアの腹を蹴りつける。


「ウッ」


 それは、彼女の口から初めて発せられた呻きだった。

 先ほど物色していた荷物の山の辺りまで飛ばされたものの、すぐに体勢を立て直し、望んでもいない形で潤いを取り戻した口元を拭く。


「驚いたよ。手加減されてたのは私だったんだね」

「最初から全力投球、という柄でもないのでね。そういう戦い方ができる年齢でもない」

「失礼しちゃうな。まるで私までお年寄りみたいじゃないか」

「剣との付き合いは君の方が長い。それは事実だろう?」

「……さっきの一撃、剣じゃなかったけどね」


 それを聞いたクラードは高笑いをする。


「バーリトゥード——『何でもあり』は争いの基本だ。君はもう少し肝が据わっていると思っていたが、見込み違いだったかな?」

 

 今度はエジディアが走り出す番だった。

 しっかり刃を構えて突っ込んでくるその様子を見て、挑発が成功したと思ったのか、クラードは口角を一瞬上げたが、彼女はその刃を床に突き刺し、棒高跳びの要領で天井近くまで舞い上がった。


 ブーツのかかとが弧を描き、呆気に取られていたクラードのこめかみにヒットする。

 彼はしばらくふらついていたが、気合いを込めるように自らの頬を叩き、笑った。


「フフ……やはり君の方が一枚上手か。能ある鷹同士、化かし合うのも楽しいものだ」

「ただの後出しじゃんけんだよ。あんまり長いとしらけてこない?」

「なら、さっさと例の竜を呼ぶといい。まさか、土の上でしかあの化け物を召喚できない訳でもあるまい?」


 剣先でコンコンと床を叩くクラード。


——前線にいなかったはずの彼がなぜ「竜」のことを知っているのか。

 そんな疑問をおくびにも出さず、エジディアはただ、にこりと微笑んだ。


「図星か。では私の勝ちだ」


 勝利を確信した顔つきで、クラードは一気に踏み込んでくる。絶え間なく振り下ろされる剣に対し、エジディアは防戦一方のまま、じりじりと壁際に追いつめられていった。




——




「私は——召喚士じゃない」


 彼女の口から出た言葉に、クラードは剣を止め、ふんと鼻を鳴らす。


「言葉とは正しく用いるものだ。君は紛れもなく召喚士だが、『それだけではない』と言うべきだろう」

「いつから知ってたの?」

「昨日、君がここを訪ねてきた時から。まだ元帥ではなかったとはいえ、本営で作戦指揮に集中すべき私が、昨日はなぜ父の邸宅にいたと思う? その昔、凡庸な一兵卒に過ぎなかった父が、軍のトップにまでのし上がれた理由。死を悟った本人から、その答えを直接『見せて』もらっていたのさ」


 切っ先をエジディアの方に向けたまま、クラードは床に置いた箱の位置まで戻る。左右のロックを外し、彼がその中から取り出したのは、エジディアが持っている物と瓜二つの杖だった。

 違いは二点。色が金色であることと、先端の刃が三日月型であること。


「悪いが、これを返すことはできない」

「まだ何も言ってないよ」


 赤く淡い光を放っている杖を握りしめたまま、クラードは声を絞る。


「私は……父とは違う。この胸に光る勲章は、すべて己の実力だけで掴み取ってきたものだ。だが、父のように才も知性もない人間すら一騎当千の兵に変えたこの武器は、今後も拡張路線を歩む我が軍にとって不可欠といっていい」

「またまた。貴方たち、その杖の名前すら知らないでしょ?」

「名前などどうでもいい。どんな謎に包まれていようと、前線で成果を出してくれる物はそれだけで有用な兵器だ。君と同じようにね」

「ふーん。そう」


 クラードは上目遣いにエジディアを窺う。


「……素敵な表情だ。そろそろ私を殺したくなってきたのではないか?」

「まさか。私は貴方の父上を敬っているからね」


 その口調は相変わらず凪のようだ。

 しかし、紫色の目がどこか活気付いていることにクラードは気付く。


 どこか遠くで風が鳴っている。

 銀の杖を高く掲げ、エジディアは大きく深呼吸をした。


「バーリトゥード——それが貴方の座右の銘かい?」

「いかにも」

「いいね。私もそうしよう」


 彼女の目が輝き、杖の先端からは火打ち石を打ったような光が迸る。クラードが再び斬りかかるよりも早く、その柄が床に突き立てられた途端、倉庫全体が大きく揺れた。


「なにを……」


 窓ガラスが砕け、室内は暗闇に包まれた。外から何かに押しつぶされるように両側から壁が迫りくる中、エジディアは中央により集まった荷物の上を、ひょいひょいと身軽に飛び越えていく。


 数秒後、クラードもエジディアも巨大な「口」の中にいた。床に亀裂が生じ、何もかもがその奥に呑み込まれていく様子を、エジディアは牙と牙の間に杖を渡し、その柄にぶら下がりながら見ていた。


 ——足首に違和感を覚える。

 決して下に落ちまいと、クラードがそこに手をかけていたのだ。


「おや、よくここまで登ってきたね」

「私も諦めが悪くてね……このまま地獄へ落ちるというなら、君も道連れだ!」

「あ、ちょっと」


 クラードは身を揺らし、エジディアを杖から引きはがそうとする。そこまでしなくとも彼女の細い腕が、自分自身と彼の重量に耐えられるはずがなかった。


 手が離れた瞬間、重さでたわんでいた杖はバネのように外へと飛び出し、二人は瓦礫もろとも、月明かりの届かない本物の闇へと飲まれていった。




[newpage]





 身体の節々に痛みを感じながら、クラードは静かに目を開ける。

 視界に飛び込んできたのは、貼り付けたような笑みを浮かべ、先端に三日月型の刃がついた杖をこちらに向けるエジディアの姿だった。


 杖は赤く強力な光で辺りを照らすだけでなく、誰がこの場の支配者が誰であるか——はっきりと示している。

 自身が「支配される側」であると悟った彼にできるのは、第一声を勝ち取ることだけだった。


「……誤算だった。まさか建物を呑み込むほど大きな竜を召喚できるとは」

「どんな生き物にだって『母親』がいるものさ。彼らも無から産まれた訳じゃないからね」


 横たわるクラードをじっと見据える彼女の目は、まるで炎のようだ。


「さて、手合いは私の勝ちみたいだけど……あいにく、貴方はまだ口が利ける状態だ。そこでどうだろう、ここは互いの健闘を讃えて、仲直りのハグをしようじゃないか」

「私のもう一つの座右の銘を教えようか。『男に二言はない』だ」

「……つれないねえ。貴方の一国の元帥なら、もう少し自分の身を案じた方がいいんじゃない?」


 喉元に寄せられた杖を払いのけ、クラードは立ち上がる。

ぐにゃっ、と柔らかい足場に一瞬バランスを失いかけるが、すぐに持ち直し、彼女に背を向けてゆっくりと歩き始める。


 その隙に、エジディアから彼に攻撃を加えることはなかった。黄金の杖はクラードの手中にあった時も朧げに輝いていたが、エジディアの手中に渡った今、それは月光があった頃と変わらない光で空間を満たしている。

 ——主人との再会を喜ぶように。


「これからどうするつもりだ。君の召喚が成功したとすれば、ここは胃の中だろう。まさか二人そろって竜の糞になろうというのか?」


 突き当たりの壁にそっと手を触れ、クラードはつぶやく。

 光に照らし出された壁はピンク色で、ひどくぬめりを帯びていた。


「ふふっ、二人?」


 後ろでエジディアが小さく笑う。

 クラードが視線を落とすと、その身体は下の方から、少しずつ透明の結晶体に覆われ始めていた。


 杖の輝きに応えるように成長する結晶体。

 そして、さっき壁に触れた手に残るヒリヒリとした感覚。


「貴様……!」


 エジディアがやろうとしていることに気付き、自らが開けた距離を引き返した頃にはもう、彼女は胸の上まで結晶の中に取り込まれていた。

 いや、「避難した」という方が正解だろう。


「貴方もシャイだね。だからハグをしようと言ったのに」


 クラードは転がっていた自分の剣を拾い、大急ぎで彼女に斬りかかる。

しかし手遅れだった。すでに全身を包んだ結晶は固く、割れるどころか逆に彼の剣を砕き、奥に浮かぶ涼しげな笑顔を守る。


「アリーナ席はお譲りするよ。心配しなくても、お互いに行きつく先は同じさ」


 声こそくぐもっているが、結晶内に自分が喋れるだけの空洞は確保しているらしい。彼女が快適そうに話す一方、クラードが立っている「外界」は急激に湿度が増し、ただでさえ不安定な足場は沼地のようになっていた。


「アツッ!」


 劣悪な環境の中、一滴のしずくが折れた剣に落ち、クラードの手に伝う。

 彼がそれを反射的に地面に放り投げたとき——その剣身はすでに腐り果てていた。


「貴様! 中に入れろ!」


 荒々しい要求など意に介さず、エジディアは安らかに目を閉じる。胃袋全体が収縮し、迫りくる肉の壁と結晶体の間に挟まれながら、クラードはあらゆる罵詈雑言を彼女に浴びせた。


「長旅の前に、ひとつ訂正しておこうか」


 思い出したように、彼女は片目を開ける。


「私は『兵器』じゃない。通りすがりの『魔女』ってところさ」

「頼む……入れてくれ……!」


 二人の会話はそれきりだった。自己紹介を終えたエジディアが優雅な眠りにつく側で、クラードは最後まで嘆き続けていた。




——




 ぐぽっ、という生々しい音。

 厚い水晶で身を覆ったエジディアに続き、竜の口から吐き出されてきたのは、失神しながらもどうにか五体満足を保っているクラードと、丸まったまま安らかな寝息を立てているフランだった。二人とも、衣服にはところどころ穴が空いている。


「うっかりしてた。つい貴方まで道連れにするところだったよ」


 クラードの剣を弾いた水晶体も、エジディアが内側からそっと押しただけでパキパキと割れる。彼女はゆったりと伸びをした後、フランの元に歩み寄り、竜の粘液にまみれた彼の横にしゃがみ込んだ。


「おはよう」


 彼女はフランの頬を指で突く。


「うーん……エジディア?」

「そうだよ。起きがけで悪いけど、元帥殿の具合を見てもらってもいいかな」

「何の話か分からないけど……それよりお前、さっき俺の腹を殴らなかったか? 今も若干痛いんだけど」

「ひどい夢だね。水でも持ってこようか?」

「いや……何でもない」


 彼が唸った背後で、巨大な竜はさりげなく霧消した。一瞬、何かが輝くのを感じたフランは振り返ったが、ちょうど東の空が明け始めていたのは幸運だった。


「もう朝か……何も記憶がないな」

「あれだけ飲んだらね。それじゃ、元帥殿をよろしく」


 左右に多少よろけながら、フランは彼女の言う通りにした。

 彼はおっかなびっくり、苦悶の表情を浮かべたまま倒れている上官の四肢に触れる。


「軽く腕を折ってるのと、皮膚が少しただれてる……いったい何があったんだ? 大体、クラード元帥がどうしてここに?」

「さあ。満月が彼を狼にしてしまったのか、激しく言い寄られてしまってね。お断り申し上げたところ、少しとっくみあいになっただけさ」

「とっくみあいで火傷したのか?」

「ああ、実に熱い闘いだったよ」


 わざとらしく肩をたたくエジディア。

 一方、横たわる元帥の肌に触れ、フランはようやく、自身もひどいぬめりに覆われていることに気づいたようだ。


「そういえば、どうして俺の身体……」

 

 次の瞬間、エジディアは右手の人差し指を唇に押し当て、左手できらきらと光る塊をフランの傍らに放り投げた。チョコレートのように薄く、金属とも宝石ともつかないそれを、彼はゆっくりと手に取る。


「……フラン。私は今からこの国を出ようと思う。そしてさっき目覚めてからというもの、貴方はもう私に四回も質問してる。答えてあげるのはあと三回だ。この先は慎重に訊くことをおすすめするよ」

「は? 本気か?」

「本気さ。あと二回」


 エジディアの目を見て、フランは自分に反駁の余地が残されていないことを悟る。

 なぜ、自分の体がべたついているのか。

 なぜ、エジディアが杖を二本も背中に挿しているのか。

 「本当は」元帥と何があったのか。


 それら当然の疑問をかなぐり捨て、フランは二度目の質問をする。


「……これは何だ?」


 幅が約十センチ、長さが約十五センチ。色は深い蒼。

 それが「鱗」であることは多少観察すれば分かるし、並の生物ではあり得ない大きさから、それが何の鱗であるかもフランには察しがついていた。


 無論、彼が求める答えはそういった類いではない。

 

「短い間だけど、君には世話になったからね。何か困難なことがあった時、それを二つに割ってくれば、この私がどこからともなく駆けつけてあげよう。到着までの年数は保証できないけどね。十年か、五十年か」

「……そんなに長い間、同じ問題に直面してるとは思えないけどな」


 エジディアは微笑する。


「そうだね。でも、災いとは絶えないものさ。私を呼んだ後、その問題を自力で解決できた人も、私が着くころには大抵、何か別の問題に巻き込まれてる。その大小に関わらずね。だからその時、君が命の危険に晒されていれば守ってあげるし、制服のボタンをなくしたとあれば、同じ床に這いつくばって探してあげよう」

「へえ……それは良いお守りだな」

「でしょう? ついでに呪いもかけておいたよ。『次に私と会う日まで死ねない』という呪いだけど」

「えっ」


 その言葉にフランは青ざめる。決して今際の際に立ち会った訳ではないが、彼女が亡くなったリト元元帥に会うためにこの地にやって来たのは、ちょうど彼が亡くなる直前だったはずだ。


 つまり、その呪いを逆に言えば——。




「冗談さ。それじゃあ、またね」

「おい、待て。まだ最後の質問が終わってないだろ!」


 けらけらと立ち去ろうとするエジディアに対し、手の上にある鱗が御守りなのか呪物なのか判然としないまま、フランは立ち上がる。


「……そうだったね。フルネームでも出身地でも、何でも答えてあげるよ」


 否が応にも興味をそそられるテーマを並べ、彼女は蠱惑的な笑みを漂わせる。

 フランはしばらく考えていたが、やがて自分自身に呆れたように鼻を鳴らした。


「いや……やっぱりいい。次に会った時、『遅刻の理由』を聞かないといけないからな」

「ふふっ、わかった」


 真新しい太陽の頭頂部に向かい、二本の槍を交差させた背中は黒いシルエットと化す。彼女は高い柵を飛び越え、あっという間に遠ざかっていった。

 すぐにその姿も見えなくなる。








——








「じゃ、予約しとくぜ」


 朝陽を喰らい、鏡のように煌めく鱗を、フランは真っ二つにへし折った。




 おわり


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

竜使いは忘れた頃に ろん @longinus2001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ