第8話 遅くなってごめん

 お母様が心配そうな顔で私を覗き込んでいる。


「パティ? 大丈夫?」

「はい」

「良かったわ。エルロイ先生も心配されて出発を延ばされるとおっしゃったのよ」

「そうでしたか。申し訳ございません。でも、もう大丈夫です」

「パティ?」


 私は全て思い出した。

 何に向き合っていたか、そして何から逃げたのか。


 アンソニーに会えなくなったことで、漸く私は自分がアンソニーを好きなのだと気が付いた。だけどあの日アンソニーは王太子の宣誓をしていた。私の気持ちなど届くはずのない世界に行ってしまったのだと理解した。だけど私は自分の気持ちをどうしたらいいのか分からず、蓋をして押さえ込んでしまった。


 今ならば私の婚約が棚上げになったのも仕方のないことだったと分かる。むしろ白紙という言葉を使わないでくれたことに優しさや気遣いを感じる。突然王太子という立場を受け入れなくてはならなくなったアンソニーの方こそ、私に会いにくる暇もないぐらい大変だったに違いない。

 それでも彼は王太子としての道を進むと決めたのだ。ならば彼の進む道を応援するしかないではないか。だって大好きな幼馴染なのだから。


「お母様。私、この刺繍を刺し終わったら王都に戻ります。長らく我が儘を言って申し訳ありませんでした」


 お母様は目を見開くと私を抱きしめた。


「大丈夫。大丈夫よ。パティ、自分を信じなさい」



 


 こちらにきてそろそろ1年。


 私は庭園に面したテラスで最後の刺繍となるイニシャルA・Lを刺していた。もちろんアンソニー・ド・ロレーヌからとったものだ。意匠は愛する人の健康と繁栄を祈るためのものである。無意識に選んでいたことに思わず苦笑する。この意匠はその複雑さから敬遠されるが、綺麗に刺せればこれ以上ない美しさがある。

 すっかり遅くなってしまったが、アンソニーに立太子のお祝いとして贈るつもりでいた。でも彼に婚約者がいたら遠慮しよう。きっと、その方が素敵な刺繍を贈られるだろうから。

 イニシャルに使った糸は榛色だ。何本もの糸の撚りをほどき組み合わせて作ったアンソニーの瞳の色と同じ色。


 ついに出来た。

 糸の始末をして切り落とす。木枠から外すと空にかざした。うん。いい出来栄え。やり遂げた自分が誇らしく思えた。


「それ僕のだよね」

「えっ? アンソニー……」


 忘れもしない声が背後から聞こえて咄嗟に振り向く。そこにいたのは相変わらずここにいるのは当然の権利だと言わんばかりのアンソニーだった。


「パティ。なかなか戻ってこないから迎えにきた」


 迎えに来たって一体……。混乱している私にアンソニーは言葉を続けた。


「一緒にお菓子を食べようって言ったのに、悪かった。パティ、遅くなってごめん」

「……そうよ、そうよ、私ずっと待っていたのに」


 堪え切れなくなった私は、アンソニーの胸に飛び込んだ。とめどなく涙が零れる。

 アンソニーが私の背中を撫でてくれる。

 

「パティ、さっきの刺繍、僕のでいいんだよね」

「遅くなってしまったけどアンソニーの立太子のお祝いにと思って」

「ありがとう。一生の宝物にする。それでね、パティ。僕と婚約してくれる?」

「婚約って、あなた自分が王太子になったって分かってるの?」

 

 私はアンソニーの腕の中で「私には無理よ」と小さく呟いた。

 彼がそう言ってくれたことはとても嬉しかったけど、彼は公爵家嫡男ではなく、王太子なのだ。彼と婚約するということは王太子妃になるということ。王太子妃の教育はとても大変だと聞いている。私に務まるはずがない。


「現王妃の乳母であり王宮女官長であるエルロイが太鼓判を押してるんだ。問題ないよ」

「エルロイ先生が……そんな凄い方だったなんて」

「僕は大丈夫だって言ったんだけど、どうしてもって煩いから、仕方なくパティの教育を承諾したんだ」

「大丈夫だなんて、そんな他人事だと思って」

「でも大丈夫だった」

「そうだけど」

「だって子供の頃からずっと僕と過ごしてきたし、一緒に勉強もしてきただろう?」

「えぇ、それはそうだけど。ただ単にお茶をしたり、お食事をしていただけだわ。お勉強だってお茶のついでの雑談みたいなものだったじゃない」


 なぜこんなにむきになっているのか分からないけど、私は精一杯抗議した。


「あれは僕と結婚した後にパティが困ることのないようにだな」

「結婚?」

「だって僕はパティ以外と結婚する気はないから。だいたい何でエルロイと一緒に戻ってこないんだ。遅すぎるよ」

「だってそれは、刺繍もあったし、王太子妃になれるなんて思わないし……」

「パティ。僕と一緒に帰ってくれないか。いや、お願いしている場合じゃないな」


 突然アンソニーが私の背後に向かって声をかけた。


「そういうことで連れ帰ってもよろしいでしょうか。リゴー侯爵夫人」


 えっ? お母様?

 恥ずかしさに恐る恐る振り返ると、目頭を押さえて頷いているお母様の姿があった。

 それを確認するなりアンソニーは私のことをひょいと横抱きしてスタスタと歩き始めた。


「ちょっと何するの。下ろして」

「暴れると落ちるから、しっかりつかまって」


 慌ててアンソニーの首にしがみつくと、満足そうなアンソニーの顔が、思ったよりも近くにあった。


「ねぇ、どこに行くの?」

「馬車を待たせてある。即刻王都に帰るよ」

「帰るって、まだ準備もしてないわ」

「それは侯爵夫人に任せよう」

「でも何もないのはさすがに」

「途中の街でいくらでも買える。他に懸念事項が?」

「だって、そんな急に……んっ」


 近づいてきたアンソニーの顔が視界いっぱいに広がってぼやけたと思ったら、私の口に柔らかいものが押しあてられていた。


 んっ……。


 何が起きているか理解した私の顔が熱くなる。


「ねぇ、どれだけ僕が待ったか、ちゃんと分かってる?」


 玄関に行くと王家の馬車が横付けされていた。私を抱いて現れた王太子殿下を見た近衛兵たちがぎょっとする。私は居たたまれない気持ちになり、アンソニーの首元に顔を埋めた。

 

 私たちを乗せた馬車が走り出す。見送り出られたお母様が頭を下げた。


「パティ。王都に戻ったらすぐに婚約式だから」

「だから、そんな急に無理……」


 アンソニーの顔が再び近づいてきて、私はそっと目を閉じた。

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幼馴染との婚約の話が棚上げになりました もりやこ @moriyako

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