第7話 あの声は
領地に来て半年が経った。
胸の痛みを覚えることも少なくなっていた。
エルロイ先生による私の学力やマナーの確認は最初の1週間で終わった。中でもマナーについては真っ先に先生のお墨付きを頂いた。「私が褒めることは滅多にないということだけは承知して頂きたいものです」と、なぜだか残念そうに言った先生のお顔はとても面白かった。
学力も問題ないということで、それ以降は王国や他の国々の歴史、王国との関係性、またその国々の言語を学ぶことになった。
でも始まってみれば、それらは既に知っていることばかりだった。この頃になるとそんな私に一々驚かなくなったエルロイ先生が、念のためにとそれぞれの分野で権威と言われる高名な先生方を呼んできた。だけどその先生方も自分たちの出番はないと分かると、エルロイ先生と同じように驚き、そして残念そうに肩を落として帰っていった。
私、いつの間に身に付けていたのかしら?
最近ではエルロイ先生とお茶をする以外は、時事的な問題についての質疑応答のため、たまに担当の先生がいらっしゃる程度になっている。
しばらくぶりにまとまった時間のとれた私は、領地に来てから手も付けずそのままにしていた荷物を整理することにした。
あっ、刺繍糸。
そう言えば色の美しさに惹かれて買ったんだった。
あの意匠を刺したい。頭の中に不意に浮かんだ意匠があった。どうしてその意匠なのかは分からない。だけど刺したいという衝動を抑えることが出来なかった。私はシルクのハンカチを木枠に嵌めると、取りつかれたように刺繍を始めた。
この意匠はとても細かいため刺す者の力量が問われる。だけどゆっくりと刺していけばいい。時間はたっぷりあるのだから。
私はそれ以来、空き時間に刺繍を刺すようになった。
領地に来て10か月経った頃、イライザお義姉様とお兄様が6か月になる子供を連れて遊びに来た。
男の子の名前はケヴィン。
あぁ、とうとう私は叔母さんになったのね。何だか不思議な感じがする。
ケヴィンを抱っこして庭園の散策をする。降り注ぐ陽の光が動物を模ったトピアリーを輝かせている。ケヴィンはこの大きいトピアリーが気に入ったようで、それを指さしては大きな目をくりくりとさせる。そう言えば私もトピアリーを良く眺めていた……。何でだったかしら?
とても大切な事を忘れてしまっているような気がする。
夕食後イライザお義姉様の元を訪ねた。
「パティ、座って」
「はい、お義姉様」
「よく顔を見せて頂戴。元気にしていた? あなたがあのお屋敷にいなくなってとても寂しかったのよ」
「ええ、元気です。ありがとうございます。あの……お義姉様、これを」
私は刺繍のハンカチをお渡しする。これは子供の成長を願う女神をモチーフにしたもので、孤児院のバザーでは特に人気の高い意匠だ。お義姉様が来ることが分かってから、急遽刺したものだったが、中々の出来栄えだと思う。
「まぁ、パティ。凄いわ。何にも勝るプレゼントよ。ありがとう」
お義姉様は私をふわりと抱きしめた。
「それで最近は苦しくなることはないの?」
「はい、もうほとんどありません。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。元気ならいいのよ。早く王都に戻っていらっしゃい」
「ありがとうございます」
半月ばかり滞在されていたお義姉様たちが王都にお帰りになった。小さなケヴィンのいる間賑やかだった領地に静寂が戻る。私の刺繍も佳境に入っていた。
コンコンコン。
「パトリシア様、少し宜しいでしょうか」
「まぁ、エルロイ先生。もちろんですわ」
私は遣りかけの刺繍を机に置くとソファーを勧めた。
「パトリシア様。お暇のご挨拶に参りました」
「えっ? エルロイ先生?」
「パトリシア様は最初から何でもお出来になられて、私の指導など必要ございませんでした。ですが……パトリシア様がどこまでお出来になるのか眺めていたくて、パトリシア様とのお茶の時間が楽しくて、つい長居し過ぎたようです。大変失礼いたしました」
深々と頭を下げるエルロイ先生に、止めて下さいと手を伸ばす。
「パトリシア様、私のことはエルロイとお呼び下さい。また王都でお目にかかれるのを楽しみにしております」
もう一度深々と頭を下げたエルロイ先生は静かに扉を閉めていった。
お義姉様たちも帰られたばかりだというのに先生まで……。みんな私の元からいなくなってしまう。そう言えば、あの人も突然姿を見せなくなった……。そして次に見た時には遠い存在に……。
あぁ、胸が苦しい。
あの日宣誓をしていた声……あの聞きなれた声はアンソニーの……。
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