元聖女の祈りは届かない。



 雨が降っている。


 辺境の古びた教会。中庭の思い思いに伸び切った雑草が、雨風を受けてざわざわと好き勝手に揺れていた。雨水がステンドグラスを叩いてせわしなくパタパタと音を立てている。無人の建物内は薄暗く、時折反響する遠雷は巨大な獣が喉を鳴らしているようだった。訪れる者もまれとなったこの場所では、自然の音がやけに耳に障る。


 薄暗い部屋。くすんだ窓から、元聖女のラーファはぼんやりと雨雲のかかる山脈を眺めていた。


 魔王討伐から10年。


 教会の中枢で権力闘争に明け暮れた日々。あるときは聖女としての威光で、あるときは肢体からだで権力者を篭絡した。


 かつてラーファを諫めようとした者たちの声は、増長した彼女の耳に入ることはなかった。辺境への出立が命ぜられ自分がただ利用されていただけだったと思い知ったのは、人望を失いすべてが手遅れになってからだ。


 豪華絢爛な王都の聖堂カテドラルも、彼女を悦ばせた男達の指先も、今となっては不思議なほど記憶にない。今ラーファの心を慰めるのは、思い出したくもなかったはずの、勇者達と過ごした苦難の旅路だった。


「ラーファ様」


 声に回想を中断し、振り返る。目の前に佇んでいるのは、銀の鎧に見を包んだ騎士である。


「まあ、ランディル卿」


 教会史上最年少の聖騎士クルセイダー。その美貌と武勇は今や王国に広く知れ渡り、新たなる勇者誕生との呼び声も高い。ラーファが辺境に更迭されるにあたり、護衛として小隊を率いて随伴すること自ら申し出たのだ。ラーファはほとんどランディルの事を知らない。彼女にとって聖騎士団は顎で使うだけの駒でしかなかった。


「部下達が帰投しました。やはりこの辺りに魔物の類はいませんね。静かなものです」

「ご苦労さまでした」


 ラーファは微笑んだ。


「そういえば、勇者アキの話をお聞きになりたいんですってね」

「ええ、ええ!そうなんです。ぜひかの御方のお話を伺いたい」


 ランディルは柔和な瞳を少年のように輝かせる。この純朴な若い騎士は道中もアキの話ばかりしていた。ラーファは内心ほくそ笑む。すべてを失った彼女にとって、この新たなる英雄、この美しい若武者こそ中枢復権への鍵である。周辺の哨戒が完了すれば、ランディル達は王都へ帰還してしまう。その前に彼を籠絡し、ラーファの王都復帰を進言させなければならない。


 ***


「…魔王討伐の旅は困難を極めました。


 旅路の途中、勇者は数多くの善行を成しましたが、大任を抱えるその御身一人では、限られた時間の中ですべての人々を救うことはできません。王国はかつてない繁栄を見せていますが、人の領域は未だ少なく、未踏の地は数多く残り、そこかしこに魑魅魍魎が跋扈しています。


 魔王討伐後も勇者アキは、果たせぬままに終わった、人々に安寧をもたらすとの約束を守るため、世直しの旅を続ける決意をし王都を旅立ったのです。


 今もどこかで戦い続けているにちがいありません」


 そう話を締めくくったラーファは、その端正な美貌に悲しげな微笑を浮かべてランディルを見つめる。


「残念なことに今まで教会は勇者アキの動向に関心を払っていませんでした。ですが私は王都に戻り、ぜひとも彼の後押しをしたいのです。」


 ラーファにとって勇者支援の話題はランディルの関心をひくための方便であると同時に、一部本心でもあった。すべての人間に裏切られたラーファにとって、かつてアキを裏切り追放した自身への罪悪感が、今更棘のようにラーファの心を苛んでいた。


「そのためにはランディル卿、新たな英雄たる貴方様の声が必要なのです。ぜひお力添えをいただきたいの」


 目を閉じ頷きながら話を聴いていたランディルは、すぐには答えなかった。窓際に寄って外の中庭を眺める。彼が次に発したのは全く違う話題だった。


「辺境伯領の、さらに奥深くの森。そこが私の故郷です」


 遠くにあったはずの雷雲はいつの間にかすぐそばまで迫っていた。窓からさしこむ光はますます乏しい。薄暗い部屋の中、つきかけた蝋燭の乏しい灯の届かぬ先の、その陰をより一層濃くしている。


「貧しい開拓村でした。邪悪なウェンディゴに目を付けられ、ずっと生贄を要求されていたんです。勇者様の一行が辺境伯領を通って魔王の住まう魔境に向かうと聞いて、きっと救ってくださると信じていました。それだけが、力なき私たちの生きる希望だったのです」


 辺境伯領は魔王の領土との境界にある地域である。ラーファの記憶には全くなかった。当時の勇者一行は魔王討伐を急ぐため、ほとんどの地域民の陳情をアキに聞かせることなく勝手に却下していた。アキの耳に入ってしまうと、時間をかけてでも人々を救おうとしてしまうからだ。ランディルは語り続ける。


「勇者様御一行は魔王討伐の大任を全うすべく、旅路を急いでおられました。鬼と、その手下たちの住まう大洞窟に一時的な封印を施し、使命を果たしたら必ず戻るからと約束してくださり、そうして旅立っていかれたのです」


 話の雲行きが怪しい。ラーファの額に汗が滲んだ。魔王討伐後、ラーファと教会は重傷を負って力を失ったアキをさっさと追放してしまったため、その後の動向については、まだ生きているという以外ほとんど知らなかった。


「封印はすぐに破られました。怒り狂った鬼は、手下を引き連れて村を襲い、大勢死にました。わたしはアキ様から密かに託されたオリハルコンの短刀で手下の一人を撃退して逃げました。生き残りと合流してさらに辺境に落ち延び、再び鬼におびえる日々を過ごすことになりました」


「…なんということ、でしょう」


 ラーファは自らの微笑がひび割れるのを感じた。思い出した。あの村、あの封印。自分がわざと。大丈夫、大丈夫だ。まだごまかせる。


「ランディル卿、であればこそです。わたくしたちで協力して、勇者アキを見つけ出しましょう。そして勇者の旗印のもと、鬼を打ち滅ぼして村の人々の仇を」


「ラーファ様、勇者様は


「え?」


 ラーファは思わず間抜けな声を出した。ランディルの秀麗な笑顔が、急に蝋人形の如き不気味さを孕んだように見えた。ランディルは話を続ける。


 10年前。一人ふらりと現れた勇者は襤褸ぼろを纏った痩せこけた姿で、出迎えた村人たちが心配したほどだった。


「ゆうしゃさま、むりしないで」


 泣いて止めようとする幼いランディルの頭を撫でて、アキ優しく笑った。そしてアキは鬼の巣に乗り込んでいった。


 数日後アキは帰ってきた。鬼とその手下全員の首を持って。


 傷だらけで帰ってきた勇者は村の復興の手伝いと犠牲者の弔いを済ませると、村人たちが止める間もなく「他にも約束があるから」と、やってきたときと同じ笑顔のまま去っていった。


 その後巡礼者に才能を見出されたランディルは、教会で働きながら勇者の動向を探り続けた。そして当時の勇者パーティが彼を見捨てた事を知った。


 語り終えたランディルが口の両端を吊り上げ笑いかける。もはや純朴な青年の表情はそこにない。ラーファが真っ青な顔で後ずさった。いつの間にか聖騎士の手には、が握られていた。


「今更なんだというの」


 荒い息をつきながら、ラーファは叫ぶ。


「善意だけで世界が変えられるわけがない、力が必要なのよ!力を失ったアキが用済みなのは誰の目にも明らかだったのよ!」


「そうでしょうとも」


 聖騎士は冷笑を貼り付けたまま動じない。


「わたしもあなたと同じ。今からなすことは自分勝手、私怨わがままです。あの勇者様が復讐などという行為を喜ばれるはずがないですから」


(こ、殺される…!)


「キャァァァ!」


 ありったけの悲鳴を上げて、ラーファは部屋を飛び出した。講堂にいた他の聖騎士たちを見つけると、よよよと泣き崩れるふりをしながら、涙ながらに彼らに訴えた。


「お助けください!聖騎士ランディル卿がご乱心を!私を殺そうとしているのです!どうか…」


 ラーファは言いかけて、凍り付いたように動けなくなった。聖騎士たちは動かない。冷たい目で彼女を見下ろしている。


「彼らは私の同志」


 ラーファの背後から、ランディルの平坦な声が響いた。


「彼らもかつて、勇者アキに命を救われた者たちです」

「…あああ!」


 絶叫とともにラーファは両手を突き出した。ランディルの足元から光輝く鎖が飛び出し、彼を捕えようとした。


 一閃。聖騎士の短刀がひらめくと、光の鎖は一瞬で粉々になり消えた。


 は、と気の抜けた声がラーファの口から漏れる。だらだらと脂汗を流しながら、恐怖に引きつった表情でランディルを見上げる。


「この程度か。かつての救世主の神聖術は…」


 ランディルが一歩進み出る。

 ラーファがへたり込んだまま、後ずさった。


「弱者を守るどころか私腹を肥やし、我が恩人を見捨てたな」


 ランディルが一歩進み出る。

 ラーファは動けなかった。すでに後ろは壁だった。


「芯まで腐り果てたきさまも教会も、もう終わりだ」

「ま、待って…」


 死にたくない。


「わ、私が呼びかければ、きっとアキは来てくれるわ!今の聖女など!あんな、何も知らない小娘よりもずっと・・・」

「心配無用。現聖女ノエルもアキに命を救われた一人。もっと言うならお前を更迭した枢機卿も我が同志だ。お前の取り巻き共はすべて失脚だ。勇者復活の宣言は現聖女主導のもと、確実に履行される」


 ラーファは唖然とした顔で、目をしばたかせた。


 ようやく悟る。アキが撒き続けた、わずかな善意の種。ラーファが偽善、無意味とあざけり目をそらし続けたそれは今、輝くばかりの聖女、あるいは聖騎士の姿へと成長し、今ラーファの目の前に立ちはだかっている。


 雷光、雷鳴。


 廊下の窓から唐突に差し込んだ閃光が視界を灼き、ラーファはびくりと身体を震わせた。風雨は堪えがたいほどに強まり、窓をばたばたと打ちのめしている。霞む視界に写る聖騎士の姿は、まるで自分を罰するために神が遣わした天使を思わせた。聖騎士の手に握られたオリハルコンの短刀が魔力の燐光を放ち、二人の顔を虚ろに照らした。


 ―見覚えがある。あの人アキのナイフ。

 ―ああ、とっても綺麗な刃。しぬ。


 死の恐怖と罪悪感が、思考をかき乱す。呼吸が浅い。動悸が鼓膜を打ち破らんばかりに鳴り響く。瞳孔が痙攣し、視界が、部屋が、目の前の騎士の姿が歪む。


 記憶がこま切れに明滅フラッシュバックする…初めて出会ったときのアキの笑顔、朝日の後光が眩しい。背中を預け、命を預け合って戦った日々。無茶ばかりする彼と大喧嘩した。彼と抱き合う剣聖あのおんなの姿。身を焦がすような嫉妬を微笑みの裏に隠した。嫉妬を憎しみに変えて彼を追放した日。あの時、何もかも投げ出して彼について行っていれば。襤褸ぼろをまとって去っていく背中、伸ばしかけた自分の手。そして時が。


 10年。

 10年だ。ぜんぶまちがえた。

 ああああ


 自然と両手を握り合わせ天を仰ぐ。何年ぶりの祈りだっただろうか。権力と淫邪に耽溺し、鍛錬を怠り、弱者を見捨て続けた。口を開いた、祈りの言葉は思い出せなかった。


「てへっ、えへへへ」


 悪戯いたずらをとがめられた、幼児のような声。涙にまみれた顔で愛想笑いを浮かべながら、元聖女は聖騎士に命乞いをする。それはさながら愚者が聖人にすがる宗教画のようだった。中庭の雑草たちが強風にあおられてざわめき続け、出来の悪い演劇に野次を飛ばす観客のように、ぐらぐらとあちこちに穂先を揺れ動かしていた。



 ***



 連行されていく放心状態の元聖女。それを見送るランディルに、一人の聖騎士が近づいて声を掛ける。


「ラティア…いや、ランディル卿」

「ギルターク卿」


 互いに聖騎士の礼を交わすと、短刀を大事そうにしまいながら、ランディルはつぶやいた。


「存外に脅しが効いたようだ」

「大したハッタリだ、本気かと思ったぞ」

「まさか。アキ様からたまわった物を、あんなクズの血で汚すわけがなかろう」


 手に持っていたのが愛用の戦棍メイスだったら、間違いなく頭をかち割っていた、そう言っているようにギルタークには聞こえたが、分別ある騎士であるギルタークはつつましく沈黙を守って、それ以上藪蛇やぶへびになるような質問はしなかった。むしろ己の殺意を御するためにあの短刀を小道具に選んだということだろう。


「計画通り茨の城塞ソーンクリフへ移送する。道中あの女は丁重に扱うように。今はのようになっているが、そんなやわな奴ではない。警戒を怠るな」


「丁重に、か…では勇者様は、本当に来ると?」

「来る」


 ランディルは即座に断言した。


「今あんなクズ女になり下がっていたとしても、かつては間違いなく、困難な使命を成し遂げた救世主の一人だったのだ。その点には敬意を払うべきだ。それにアキ様は絶対に仲間を見捨てない。お前も分かっているはずだ」


 ギルタークは言葉を返さず、肩をすくめた。行方がつかめない元勇者アキを呼び寄せ合流するため、元聖女ラーファ拘束の噂を流す作戦である。ギルターク自身もかつて妹…現聖女であるノエルとともにアキに命を救われた身だ。あの英雄を疑うつもりは毛頭なかったが、それでもランディルの、アキに対する狂熱ぶりは度を超えている。


 そんなギルタークの思いをよそに、ランディルは拳を強く握り、決意を新たにする。


(ああ、アキ様…ようやくお助けできる!ふふふ…)


 難攻不落のソーンクリフを拠点に聖騎士団の一部を集結させる。下衆な手段ではあるが元聖女の情報を流してアキを呼び寄せ、現聖女ノエルが勇者復活と宗教改革を宣言、彼の活動を全面的にバックアップする。


 もちろん様々な障害があるに違いない。だがランディルの調べる限り、元勇者アキの活動は王国全土に静かに広まりつつある。特に魔王軍との激戦地であった辺境伯領では貴族や騎士、民草に至るまで彼を英雄と崇める者が多いとの情報を掴んでいる。必ず上手くいく。


 別にアキ自身に無理をさせる必要はない。そもそもそのための勇者擁立である。生贄にされかけた少女ランディルを助けたあの時のように、きっとアキは今も己を顧みず戦い続けているに違いない。聖騎士団支援の下、彼には一度ゆっくりと傷を癒してもらわねば。


(そう、このわたしがアキ様を癒して差し上げるのだ…彼の心を、身体を…)


 聖騎士らしからぬ、なんだかよく分からないオーラを出してハァハァと興奮しているランディルの背中を遠目に見ながら、ギルタークは密かにため息をついた。


現聖女いもうとよ…お前のはだいぶ手強そうだぞ…?)

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引退勇者 スエコウ @suekou

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