お迎えのにおい

不屈の匙

墨汁がわずかに垂れた水のような、そんな匂い


 医者の肩書をさげて数十年。

 長いこと病院に勤めていると、死の淵の匂いとでもいうだろうか、そういうのがわかるようになる。


 病死や過労死、自死。つまりは事故死ではないたぐいの死に様に限るが、「ああ、この人はそろそろ逝くなあ」とわかるのだ。

 例えば庇うような歩き方だとか。例えば表情の暗さだとか。例えばシミの濃い枯れ枝の手であるとか。

 余命いくばくもない人間からは、墨汁がわずかに垂れた水のような、そんな匂いがする。


 そして実際に、例外なく、数日以内にベッドで冷たくなったり、通勤路で見かけなくなるのだ。

 死期を悟れたとしても、医者の私にできることはあまりない。せいぜい、そういった患者に「たまにはご家族に会われては?」と伝えるのが限度だ。

 そのせいか、古株の事務スタッフは先回りして死亡連絡の準備をしていることがままあるし、同僚には「先触れ先生」なんて呼ばれている。




 いつもより、墨汁の匂いが濃い日だった。

 天気のいい、病室前の廊下で、よれたスーツに身を包んだ男性が電話をしている。

 眼鏡の奥の目の下に濃い隈をこさえて、ポケットにはエナジードリンク。スマートフォンを耳に当てて、左手はビクビクと痙攣しながら胃のあたりをおさえている。


(ああ、この人か。もうすぐ逝くのは)


 覇気のない声で「ええ、すみません……、はい。この辺りの回収が終わったら次の案件に向かいますので……失礼します」と通話を切るのを見計らって、声をかける。


「こんにちは。どなたかのお見舞いですか」

「いえ、仕事です」


 キッパリと断る目はひどく澱んでいた。


「失礼ですが、休まれては? 見たところ、とても具合が悪そうですよ」

「ああ、医者か何かでしたっけ、あなた」

「ええ。当院で内科医をしています。死んでは元も子もないでしょう? 診断書をお出ししましょう」


 勤め先に診断書を持って休職願いを出したらどうか。受付窓口で予約票をとって、と、そう続けるつもりで、私は男性に申し出た。


「残念ながら、仕事を休むことはできません。人が増えるほど、仕事も増える、そういう仕事でして。あなたに診断書を出してもらっても、僕は“終末”まで休めないんですよ」

「週末ですか。まだ月曜日ですから、ずいぶん先でしょう。少しでも、ご家族と時間をとられたり、美味しいものを食べることをお勧めしますよ」


 そんな今時珍しいほどブラックな会社、医者としては辞めろと言わざるをえない。

 少しでも悔いのない時間を過ごしてほしい、そう思って伝えたのだが、男性は疲れた様子でありながらも翻意する気はないようだった。逆に私に気遣った様子さえある。


「あなたこそ、ご自身のための時間は取られていましたか?」

「そうですねえ、最近は家族とよく過ごしておりましたよ。それに、なに、もうすぐ定年ですから。近いうちに孫も増えますのでね、遊んでやるのが今から楽しみです」


 つい先日、娘たちと食事を共にしたばかりだ。夏に次子を出産予定だと、やや張り出した腹を撫でさせてもらったりもした。

 娘の旦那も、孫も、元気そうで安心したものである。


「それはめでたいことですね。『ピピピピ……ピピピピ……』……失礼。ああ、もう出ないといけません」


 男性は一言つぶやくと、スマートフォンを操作して電子音を止めた。アラームだったようだ。

 次の案件、と先ほど言っていたから、これから別の場所へ向かうのかもしれない。引き止めては悪かろう。

 相手もこの場を辞するためか、私をまっすぐ見つめて口を開いた。


「さて、No.E-JPN19620825-M-20210315-009。旅立ちの時間です」


 ばさりと男性の背中に白い羽が広がる。その頭上には金の輪が浮いていた。

 なるほど、墨汁の匂いは私自身のものだったようだ。

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お迎えのにおい 不屈の匙 @fukutu_saji

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