耳かき屋 タキノ

灰崎千尋

うずまき

 東京都千代田区。JR神田駅の西口を出て徒歩数分、丸ノ内線の淡路町駅へ抜けていく途中の路地裏にある雑居ビル。その玄関口に置かせてもらっている「ひざまくら耳かき30分 2000円」という立て看板を横目に階段を昇った先、二階にあるのが僕の店だ。エレベーターも一応はあるのだけれど中二階に設置されているものだから、たいていのお客様は階段を使ってやってくる。おかげで僕は、足音を聞いてお出迎えの準備ができるというわけ。ちょうど今聞こえてきた足音がそうだ。少しためらいがちな、男性の革靴の足音。入り口で立ち止まって様子をうかがっているようだから、僕は事務作業をしているふりをする。これも或る種の、お出迎えの作法だ。

 扉が押し開かれ、入ってきたのはスーツ姿の男性だった。その意を決したような顔を見た瞬間、僕は「いらっしゃいませ」と言わず「こんにちは」と言い換えた。

 僕を見た男性は、今度は困惑の表情を浮かべた。それでも笑顔で「よろしければ、どうぞ」と椅子をすすめると、彼はふらふらと腰掛けた。

 外は晴れ。ジャケットを脱いでも平気なくらいの陽気だが、この人には冷水より白湯が良いだろう。ウォーターサーバーから紙コップへ、熱湯と冷水を2:1くらいで注ぎ、男性にお出しする。彼はぺこりと頭を下げて一口啜り、ほうっと息を吐いた。


「どうも、タキノと申します。耳かき屋のご利用は、初めてですか?」


 男性の斜め向かいに座り、努めて穏やかな声で尋ねると、彼は「ええ、その……」と口ごもりつつ答えた。


「こういうお店があるというのは、知っていたんですけれども。なんていうか女性の、ちょっと性的な、そういうお店が多くて。それはちょっと自分的に違ったもので……」


「ああ、うちの看板、文字だけで素っ気ないでしょう。それで来てくださったんですね」


 僕が言うと、男性は照れたように笑った。やっと少し、力を抜いてくれたかもしれない。


「ここは看板の通り、僕がひざまくらで耳かきをいたしますという、それだけのお店です。女性はお客様の紹介でいらっしゃる方が多いですが、男性はふらっと通りがかりの方がほとんどですね。よければ、少し横になっていかれませんか?」


 男性は少し緩んだ口元をきっと結び直して、「よろしくお願いします」と頭を下げた。なんだか切腹する前の武士のようだ。ただの耳かき屋なのだが。

 この男性は「お客様」になると、彼が入ってきた時に僕はなんとなくわかっていた。勘、とも違う。経験上の感覚だ。ただ彼の予想に反して僕が男性だったものだから、驚かせてしまったのだと思う。僕はそれを平らに均して、少し背を押しただけ。


「こちらにどうぞ」と僕は奥の和室へと先導する。床の間なんかは無いが、イ草の畳をちゃんと敷いた四畳半。小上がりになっているのですこし天井が近くなるけれど、障子を閉めれば雑居ビルの中であることを忘れるはず。

 靴を脱いでもらい、荷物と背広、ネクタイを預かる。たったそれだけなのだが、とても無防備に見えるから不思議だ。

 それから僕は、座布団に正座して、膝の上に清潔な手ぬぐいを敷いた。


「左右どちらからでも構いませんが、僕の腿と腿の間に頭を乗せるように、横になっていただけますか」


 そう言って自分の膝をぽんぽん、と叩くと、男性は一瞬くしゃりと泣きそうな顔をした。でもすぐにそれを振り払うように、僕の言うとおり寝転んだ。

 僕はこの、膝に乗る体温と重さが好きだ。これは僕に身を委ね、普段見られることのない耳の奥まで晒している証。


「では、失礼します」


 穴の大きさは平均的。僕は煤竹の耳かきを手にとり、まずは穴よりも外に見えている部分、耳介を掻いていく。波の形のように複雑にカーブしたひだの内側、奥まった溝。自分の目では見えないところへ丁寧にヘラを沿わせる。取れた汚れはとんとん、と懐紙に落とし、また耳へ。外側から中心へ、穴へ触れる前に、人に耳を触られることに慣れてもらうのだ。

 一通り耳介を掃除して、「これから中を掻きますよ」と断ってから、いよいよ耳の穴へ分け入った。

 よく手入れされた耳だった。耳の毛は長めだが密度はさほどなく柔らかい。耳垢は乾いているタイプのようで、大きなものは見当たらず、細かいものが多少ひっかかっているくらいだ。ヘラ型の耳かきはそこそこにして、綿棒に変えたほうが良いだろう。柔らかい穴の中を傷つけてしまいかねない。


「きれいな耳ですよ。痛かったり痒かったりしたら、すぐ仰ってくださいね」


 ゆっくり、抑えめに声をかけると、「はい」とちいさく返ってきた。

 鼓膜へと伸びる穴の、側面をヘラで優しく掻いていく。かさり、かさり、と彼の耳には摩擦音が聞こえているだろう。

 本来、耳垢は自然に耳の外へ出てくるもの。しかし痒みや違和感のために指や綿棒を突っ込んでしまうと、耳垢を逆に押し込んでしまって、耳かきが必要になる。そうでなければ、風呂上がりにタオルで耳を拭うだけで耳掃除は十分なのだ。

 さて彼は、この十分に手入れされた耳を、なぜ耳かき屋まで持ってきたのか。


 そろそろ煤竹の耳かきは引き上げようかという頃、男性の体がひくり、と震えた。耳かきに性的快感を覚える人は少なくないというが、彼の反応はそれとは別種のものだと、僕の奥底の意識が告げていた。


「ここでは誰も見ていませんし、聞いていません。僕はただ耳かきしていますから、お好きに過ごしてくださいね」


 僕が言うと、男性はまた少し震えた。やがて彼は、両手で顔を覆うようにして、ぼそぼそと口を開いた。


「ひざまくら、というものを、今までされたことがなくて。母は、なんというか、難しい人でした。それに、父とは離婚して、仕事が忙しかった。母が色々我慢したように、僕も我慢した。それでいいと思っていました。でも大人になってから、どんどん『甘えたい』という気持ちが大きくなってしまって……それが今、少し楽になりました」


 男性がぽろぽろとこぼす言葉を聞きながら、僕は先が螺旋状になった綿棒で、彼の耳掃除の仕上げをした。ゆっくりと、解きほぐすように、絡め取るように。店を出るときには、彼が少しでもすっきりとした顔で出ていけるように。


「どうぞいつでも、いらしてくださいね」


 僕はそれだけ男性に言って、僕の仕事を続けた。








「ありがとうございました。また来ます」


 男性は、とても朗らかな顔で退店していった。それを僕も笑顔で見送ったが、おそらく彼はもう来ない。僕のひざまくらはちょっとしたきっかけにはなったけれど、彼はこれから自分で自分を助けていく事ができるだろう。これも、経験上わかってしまうことだ。

 面白くって、難儀な商売なのだ、耳かき屋というのは。

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