たしかめるのは君の輪郭

草群 鶏

さわりたい/さわれない

「ね、ちょっと見せて」

「なあに、やだどこ触ってるの」

 くすくすと笑う娘からは甘い汗の香り。路地の暗がりで、アトリはその襟元に手を差し入れた。

(あった)

 うっすら汗をかいているのは熱っぽいからだ。その不調を、アトリの目は見逃さなかった。生まれつき肌に刻まれた複雑な文様、彼女の司る力の証が、わずかに歪んで綻びている。

 腕のなかに閉じ込めて額にくちづけを落とすと、娘はうっとりと目を閉じた。その隙に、アトリは力の脈を読む。

 とくり とくり とく り

 かすかに交じるノイズをつかまえてさらに探り、アトリと娘の脈が同期する。手を引いて導くようにして、そうっと歪みを正していった。

 アトリに刻まれた力は特殊で、他人の文様に干渉することができた。白文と呼ばれ、他の文様と違ってほとんど目立たない。

 これを両親はひたすらに隠してきた。その能力の特殊さゆえ、ひとたび漏れれば元の暮らしを送れなくなるからだ。事実、過去に確認された数少ない白文の持ち主はみな、中央に召し上げられるかどこかでふっつりと消息を絶っている。

 馴れ馴れしくつかみどころのない人物像はアトリが幼い頃から作り上げてきたもの、誰とでも気安く付き合いながら、何気なく触れることでこっそり文様の調律をする。こと年頃の娘は不安定になることが多く、ならばこうして身をあずけてもらうほうが手っ取り早いのだった。

 娘の呼吸が落ち着いて力が滞りなく流れていることを確かめると、アトリは軽く舌なめずりしてただの男に戻った。相手もその気だ、すこしくらいいただいてもいいだろう――。

「いた!」

 声の主は怒りもあらわに路地の入り口に立ちはだかる。逆光に燃え上がる赤毛、爛々とひかる緑の瞳。幼馴染のおそろしい形相をみとめて、アトリはへらりと両手を挙げた。

「まだなにもしてないよ」

「どうだか」

 言い捨てたキリエは二人の間にずかずか割って入って、娘の襟元をきっちり整えた。背中をぽんと押して帰るよう促すと、アトリはひらひらと手を振ってそれを見送る。

「きをつけてね」

「お前が一番あぶないんだよ」

 打ち込まれた拳はまともに鳩尾に入った。身体をくの字に折り曲げて咳き込むアトリを冷ややかに見下ろして、キリエは先を急がせる。

「おじさんが呼んでるよ、バカ息子」

 アトリはキリエに敵わない。それはもう、物心ついた頃から変わらない。


「キリエはなかなかさわらせてくれないよね」

 アトリのこの発言に対するキリエの視線は、人を殺せそうなほど冷たかった。

 里長の末っ子で見た目にも恵まれ、人当たりの良いアトリは基本的にちやほやされて育っている。ほぼ唯一の例外がキリエだ。

 小柄だが年相応に丸みを帯びて大人びていく幼馴染にそういう気が起きないではないが、さわらせてもらえないのは、もっと深い部分。

 アトリは、キリエの調律だけはしたことがなかった。

 長い間一緒にいるのだ、異変があればすぐに気づく。しかしキリエは、ふっと揺らいだかと思うとすぐに自分で立て直してしまうから、アトリの介入する隙がなかった。

 二人のあいだを、初夏の風が吹き渡っていく。

 里を見下ろす崖の上、かつて砦として使われていた横穴を、アトリは避難所として使っていた。相手に干渉できるということは、その逆もあるのだ。たまに人から離れないと、アトリ自身が調子を崩してしまう。幼い頃はよく、そうして熱を出していたものだ。大人を呼びに行くのは、いつもキリエの役目だった。

 そしていまも、隣りにいる。ふたりならんで里を見下ろしている。キリエはまた、アトリの力を知っている数少ないうちの一人でもあった。

「そうそうさわらせないわよ」

 ずいぶん時間をおいて返ってきた言葉に、アトリはおや、と顔を上げた。キリエの視線は遠く見渡す景色に注がれたまま、怒ったように続ける。

「私まであんたの世話になってたら、もう誰もあんたを助けてやれないじゃない」

 いまにも舌打ちしそうな調子で、表情も険しい。

「そんなの、ぞっとするわ」

 だからこそ、それが本心だとわかった。

 調律にともなう代償について特に話したことはなかったが、キリエは直観的にわかっているのだ。文様に干渉し調律するということは、心を預かって、その負担を肩代わりすることだと。

 ――ああ、さわりたい。

 このときはじめて、腹の底から強烈にそう思った。

 身体にさわって、脈をつないで、その奥底を暴いてみたい。凛と揺るがない表情をぐずぐずに崩して、書き換えてしまいたい。

 そうできるだけの力が自分にはあると、いまはっきりと自覚した。文様を剥ぎ取って、力を奪うことすらできるだろう。自らの力の全貌を、輪郭を照らし出したのはどっと噴き出した後ろ暗い感情で、アトリはそのことに愕然とした。いつかこれを制御できなくなる日が来る、そんな予言めいた絶望すらあった。

 青ざめたアトリの顔をキリエがのぞきこむ。アトリは反射的に身を引いた。

「なんなの」

 キリエも戸惑っている。でも、彼女はいつもの態度を崩さなかった。つねに一歩離れたところからアトリを呼ぶ。二人はずっととなりにいて、そして交わることはないのだ。

 キリエは、アトリのために、そうすることを選んだ。

 わかってしまった。もう、他に代えがきかない。

 里に訪れる夕暮れの気配、ぽつりぽつりと明かりがともり、二人の帰りを待っている。先に立ち上がったのはキリエだった。

「そろそろ帰るよ」

 そう言って手を差し出す。途方に暮れたように見上げるアトリに眉をひそめると、彼女はさらに手を伸ばした。

「手ぐらいは別にいいわよ」

 ほら、と促されて握ったキリエの手は、アトリの大きなてのひらにしっくりとおさまった。

「何を気にしてるか知らないけど、たまにはちゃんと口でものを言いなさいよ。何でも読めると思ったら大間違いなんだから」

 ぐいとひっぱる強引さは子供の頃から変わらない。その感触のたしかさに、アトリはほっと息をついた。

「キリエ」

「なによ」

「ありがとう」

「はあ?」

「いや、ちゃんと言えっていうから」

「ちゃんとわかるように言いなさいよ!」

 噛みつきはするが振りほどくことはない。結局ふもとの通りに出るまで、二人はずっと手をつないだままでいた。

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