星空の下、貴方と
神崎
第1話
そのお客様は、世間がやれ犯罪だ盗みだと騒がしい日の午前10時に、このクリーニング店に必ずやってくる。それもおそらくオーダーメイドでウール生地が使われたスーツを持って。
「スーツが上下一点ずつですね。いつもありがとうございます、お渡しはいつも通り、2週間後の水曜日でよろしいですか?」
「はい、こちらこそいつもありがとうございます」
この店が好きなのだと彼が照れくさそうに言ったのは、彼がこの店に来て1ヶ月後の話だったと思う。私も、物腰の低く、いつもにこやかで人当たりの良い、このお客様のことが好きだった。
恋……とはまた違うけれど、好きと言う感情は人のまだ見ぬ能力を開花させる力があるのか、私はお客様が持ってくる服の素材を、(我ながら気持ち悪いと思うけど)完全に暗記していた。
例えば今ここに、沢山のジャケットが並べられて、私が目隠しをして、さあこの中からお客様のジャケットを見抜いてください! と言われれば、完璧に当てられる自信がある。
しかしそんな私にもこだわりがあって、お客様のお名前は苗字しか覚えていない。お客様のお召し物の生地を暗記していて、フルネームも暗記されているなんて、私ならその店員の事を恐ろしく思うから。(ただ、正直に言うとタグや用紙などにお客様の名前が記入されているので、本当はお名前も存じあげているのだけれど)
さて、そんなことを思っていたある夜のこと。その日は昔からの友人たちと、久しぶりに食事にでも行こうとディナーを楽しんでいた。
彼女たちとは、今振り返るとくだらないとしか言いようがないようなことを、ずっと4人でやっていた仲だった。今回は、閉館時間ギリギリのビルの屋上で都会の星を見ようという話になり、学生がわんさかいるようなこの場所には少しそぐわない格好にも関わらずやってきた。
「やっぱ、都会じゃ星は見えないね」
「そりゃそうだ。空気が汚いのもあるけど、周りが明るいから」
「せめてこのあたり一帯の電気が消えてくれればなあ」
「こんな風に?」
私が何気なく呟くと、友人たちの聞き馴染みのある声の中に、聞いたことのない声が入って来た。一体誰だ、と思って振り向いた瞬間、本当にこの辺のビルの灯りが消えて、相手の顔はよく見えなくなった。
停電か、はたまた電気系統のトラブルか、SNSには何か情報が載っているだろうかと、スマホを取り出そうとした手は、気づけばスマホの代わりに誰かの手を握っていた。
「ちょっと待って! 危ないですから!」
その誰かに引っ張られる感覚がして、このままでは怪我をすると叫んだ声は、周りのどよめきに埋もれて、おそらく相手に届かなかった。
パニックになって走り回る子供、芝生のエリアに寝転がる人、誰かと電話をしている人、目の前の人はそれら全てを華麗に避けて、この屋上の角っこ、つまり人目のつかないところで急に立ち止まった。
「これを1番似合う貴女に」
目の前の人とぶつかったポーズのまま呆然と立ち尽くす私に、この人はイヤリングを装着させ、小さなメッセージカードを握らせた。
そんなことよりこの生地、確か、いや絶対そう、知ってる。だってこれ、
「……お、大貫……さん?」
しまった、人違いだったらどうするのだと思ったけれど、もう口にしてしまったのだから取り消せない。さてどうしようかと悩んでいると、はっと小さく息を飲んだような音がした。刹那、パッと周りの電気が再び灯りを灯し始め、お互いの顔がよく見えるようになった。
彼の長い前髪によって半分隠れていたけれど、その顔は間違いなく大貫さんのものであった。
「……ああ! なんだ、そういうことか、ああ、恥ずかしい」
クスクスと笑いながら大貫さんが言っていることがどう言う事なのかわからなくて聞き返したけれど、なんでもない、こっちの話だと言って教えてくれなかった。
「いつもありがとうございます。もし、次会う時があったら、大貫じゃなくてこっちの名前で呼んでくださいね?」
トントンと指さされた、さっき握らされたカードには、おそらくこのイヤリングの持ち主に向けたメッセージと、それはまあ綺麗な筆記体で彼の名前が書かれていた。
星空の下、貴方と 神崎 @ki_g_ac
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