走春賦

鱗青

走春賦

 さらってきたはじめから奇態けったいガキだった。

 山に潜む凶悪乱暴な野伏のぶせりに育てられた俺が、丁度兎を追って麓近くまで降りていると、竹藪からいきなり狩衣の童が飛び出てきた。

 相手は孕み腹の牛のように鈍足で、易々やすやすと長い髪を引っ掴んで肩にからげられたが、連れ帰ろうとすると急に叫んだ。

「待て、命よりももっと良い物がある」

 みやびかな口調に高い声。その物言いが気になり、地面に下ろして組み伏せた。相手が懐から出したのは布袋で、栗色の瓢箪の形をした物が詰っている。

「菓子だ。麦の粉を練って揚げ、飴をまぶしてある。美味いぞ?」

 嘘だったら弱竹なよたけじみた素っ首を折ってやる。

 そう脅しつけながら一個、口の中に放り込む。

 世界が変わった。

 山中の暮らしでは木の実を齧ったりするのが関の山。旅人を襲っても得られるのは保存食の類。本物の甘味、『甘さ』というものは、俺の舌が震える程の衝撃を与えた。

 一個。また一個。瞬く間に袋を空にして、量の割には不思議な満腹感に座り込んでいる俺に、童が提案してきた。

「この菓子が気に入ったならまた明日ここに持ってきてやる。見逃してくれるなら何回でも食せるぞ。反対に今私を殺してしまえば、残るのはこの服だけだ。…どうする?」

 一も二もなく俺は乗った。

 にっこりと笑う童の顔は俺の胸の中をとろかした。冷えた小川の水より清冽せいれつで、冬の焚火よりも暖かな感覚。

 哀惜や慈悲とは縁遠い生き方をしてきた俺にしても、この笑顔を消してしまうには惜しい──少なくとも無為に失くしたくはないと、そう思えたのだ。

 言葉通り、童は次の日も山へ参じてきた。手ずから貰った菓子を頬張る俺に

其方そなた如何どうして独りで暮らすのだ?父母はらぬのか?」

 と尋ねた。

 父といえば育ててくれた野伏の頭領。母については語られた事とて無い。生まれ落ちてこのかた握った物はくわではなく山刀と棍棒だ。

「ふむ。つい数年前この辺りの山賊が纏めて縄打たれたと聞くが、其方は生き残りか。私とこうして不自由ない会話ができるし、見たところ狩猟の腕も良かろうな」

 そこでっと俺の容貌を眺める。

「しかしどうにも汚い。臭いし、それではノミたかろう」

 蚤なら分かる。これだろう。毛むくじゃらの胸倉むなぐらをボリボリやって一匹摘み眼前に据えてやると、素っ頓狂な声を上げて

「水浴だ!川に行くぞ!案内あないせよ‼︎」

 と引き摺るように俺を水場へと連れて行った。襤褸ぼろを脱ぎ、水に肩まで浸かれと指示してくる。生意気な童だ。

「童ではない、私はあかざという名だ。其方より余程ものを知っている…歳は幾つだ?今が何年か知っているか?」

 馬鹿にするな、そんなものは決まっている。文禄だ。安土の城には太閤がましまして…

「アッハハハ。いつの時代だ?もうとっくに元和だぞ。その調子では己の名すら知らないか?」

 いつでも殺せるという意識は俺の牙を丸くしていた。俺は細流せせらぎの中、裸の胸を張ってベンケイという呼名よびなを教えてやる。

「ほう、いにしえの武僧か。無骨な其方に似つかわしい」

 藜は川縁の砂地に『弁慶』という字を書く。文字というものを見た事のない俺にとっては、意味どころか読み方すら解けない線の繋がり。俺は何と読むのかと訊いた。

「ベンケイだ。自分の名前ぐらいは書けた方が良いぞ?」

 俺は──もうだ──は、その文字を食い入るように見つめ、声に出し、川の中から身を乗り出して夢中で砂地に書いては消す。

「興味があるなら読み書きを教えよう。簡単な算術も。生きていくのに強力な武器となるさ」

 武器!胸が躍る言葉。俺は今後藜の言う事を聞く代わり、みだりに里者や旅人に手出ししないという誓いを立てさせられた。

「私は寺小姓でな。其方には嘘を吐かない事を御仏に誓おう」

 と言うや藜も狩衣を脱ぎ捨てて川に飛び込む。大量に舞い上がる水飛沫は、束の間の雨となって俺と藜に落ちてきた。

 太りじしで大柄な俺の背中を藜は懸命に軽石でこすり、こぼれ落ちる土塊つちくれの如き垢を見て笑う。藜は樹下に生える天狗茸のように白く小さい体躯、滑らかできず一つない素肌。

 濡れて眩しく照り返すそれが眩しく、柔らかそうな胸元や尻をじっと見つめると、何やら臍の下がむず痒くなる感覚がある。更に未知の衝動がこみ上げてきて俺は戸惑い、藜の裸から目を逸らした。

 俺が十三、藜が十の秋だった。それから藜はほとんど毎日のように俺を訪れては様々なものを教え、珍しい食物くいものを共に食した。俺からは山の果物や獲れたての川魚を渡す。藜の話はどれも面白く、二人で過ごす時間は段々と待ち遠しくあっという間に過ぎるものになっていった。

 しかし藜と俺の人目を忍ぶ秘密の逢瀬は短く終わった。読み書き算術を学び始めてようやく木板に筆を用いて墨書するのに慣れた頃、里の大人達を伴って藜がねぐらの洞窟にやってきたのだ。

「そう牙を剥き出しにして怒るな。まるで人を警戒する熊だぞ?」

 山賊など時代遅れだ。里者と交流すれば生活はもっと豊かになる。そう説き伏せられ、俺は藜を繋ぎ役として里の連中とよしみを通じる事になった。

 里の大人達の藜に対する態度は尊崇そのものだが、寺小姓というものがれだけ偉いのか俺にはとんと分からない。時折漏れてくる奴らのひそめた言葉の数々を結びあわすと、藜は有力者の嫡子ではないがそれに類する血筋であるらしい。

 貴人なのかと問うても藜本人は

「身分の違いなど気にするな。御仏の前ではそんな物は存在しない」

 と一笑に付した。もっとも俺にとってははじめからうなのだ。

 藜は愛らしく、不思議と説得力があり、俺を惹きつけて離さない。友人…それも特別な友と呼べる者を、俺は手に入れた。

 藜から習う学問も俺はするすると吸収した。反対に、人付合づきあいの方は難問だった。村人と何度も衝突し、刃傷沙汰になりかける。その度に藜は俺を宥め、周囲まわりをとりなしてくれた。何もかも投げ出してまた山に一人篭ってしまいたいとごねる俺を根気強くさとし導いてくれた。

 冬が来た。俺は麓で雪掻きを手伝い、剛力さを重宝された。

 春を迎え。牛馬の一頭すら居ないなか、田の代掻きで頑丈な足腰を褒めちぎられた。

 夏の盛り。俺はみすぼらしい襤褸の代わりに仕立てられた着物を藜から貰い、里の祭に誘われた。松明に照らされた社の境内では大勢の老若男女が円陣になり踊っている。すっかり村男と変わらぬ姿にはなったが踊り方が分からず気後れする俺に、藜は手足を添えて教えてくれた。

「ふふ。よちよち歩きの幼児のようだな、弁慶」

 松明に照らされた藜の顔はぞっとする程蠱惑的こわくてきに映った。熱に浮かされたようになりながら、俺は生まれて初めて踊りというものの楽しさを知った。

 どの場面にも藜が居た。人に恐れられる元山賊の俺が溶け込んでいけたのは全て、藜が手を引いてくれたお陰だった。

 俺は思い知った。人は俺を恐れたが、己もまた臆病者だったのだ。

 二度目の秋。

「弁慶、里で暮らさないか?子供を亡くした夫婦者が居てな、其方の働きぶりをいたく気に入って跡取りに迎えたいと言うのだが」

 身軽な藜は柿の枝に登って実を採りながら言う。俺は冗談かと返したが、相手は違うと首を振る。

 里で大勢と暮らすのは構わない。ただそこに、藜が居てくれるのならば。

「分かった。話を進めておく」

 布を広げて構える俺に柿を落とす藜の顔が、妙に暗く沈んでいる事に俺は気付かなかった。

 冬。その朝はことに冷え込んでいたが、人の足音を聞いて俺はいつもの如く喜び勇んで塒を飛び出した。

 立っていたのは藜ではなく、共白髪の夫婦。

 絶句している俺に夫の方が手紙を渡した。

 始から終りまで目を通し、俺は顔を上げた。夫は頷き、妻は微笑んだ。二人が善良であるのは疑いなかった。

 俺は手紙を握り潰し、奥歯を噛み締め──

 迎えに来てくれた事に礼を言い、済まないと頭を下げ──

 走り出した。

 山の傾斜を滑り降り、里の平坦な畦を突き抜ける。凍った川を渡り街道に入ると、漆塗りの輿を担いだ一行が目に入った。

 藜!

 俺の絶叫に一行の男達が輿を止めて刀を抜く。俺はその辺の丸太を拾い上げ、怒りに任せ全員を薙ぎ倒した。肩で荒げた息を吐きながら輿に近付くと、内から凛とした声が響く。

「何故追ってきた」

 藜に間違いない。

 俺は懐から手紙を取出し、踏み荒らされた地面の上に投げ捨てた。そこにはかねてからの定めに従い、さる小名の稚児として貰われてゆくのだと書いてあった。本流の家から持て余された庶子として、領主の子として当然の責務なのだと。──つまり人質だ。

「私はうに覚悟している。…其方と初めて会うた時、実は死ぬつもりだった。いずれ誰かに囲われ慰み者にされるよりはだと、な…」

 あの菓子は今際いまわきわくち無聊ぶりょうを慰めるため。それがまさかこんな縁を結ぶとは。

「弁慶、其方は私にとって死神でなく生神いきがみだった。雄々しい山の使いから生きろ、強くれと言われているような気がしたのだ。…帰るがいい、弁慶。其方を生涯忘れはせん」

 俺は地団駄を踏む。

「帰れ」

 否。

「帰れ」

 否。

「帰れ弁慶‼︎」

 俺は吠えた。

 藜と一緒でなければ、何をくろうても美味くはない。お前が居てくれなければ。誰にも渡したくない。それだけが俺の望みだ‼︎

「弁慶…」

 藜、俺の大事な友よ。お前の真の望みは何処どこにある。会うてもいない狒々爺ひひじじいに肌を許して満足か。

 勿体ぶるな、真実をさらせ。俺は嵐のように御簾みすを引き千切る。

 そこにあるのは藜の顔。初めて見る、泣き顔だった。 

 逃げよう。

 藜は頷き、俺に縋り付くように輿を降りる。

 俺達は手に手を取り走り出す。街道に降りた霜を鳴らして只管ひたすらに。そこで俺は藜の脚がぴたりといてきている事に気付いた。

 藜は笑う。今度こそいつもの茶目っ気のある笑顔で。

「本当は韋駄天いだてんなのだ、私は」

 嘘つきめ。

「その通り!これは仏罰が降るな。とても武家の稚児なぞ勤まらん!」

 ならば。

 何処までも走り、自由に生きてみようか。

 俺と藜は同じ言葉を口にした。

 それは溶け合い、まだまだ冷たい風に流れていく。景色の遥か先には地平線が広がっている。俺達の姿は点になり、やがて消えた。

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走春賦 鱗青 @ringsei

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