守り神
零
守り神
寒空の下、灰色の大きなブロック塀の中。
ガラスに隣接する御影石に乗り、男は慣れた手つきでドライバーを縁側のガラスに突き刺す。ぱりん、と小気味いい音がして、わずかに穴が開いた。そして穴の周囲を、黒いパーカーのポケットから取り出した大振りのペンチの先で何度も突く。するとガラスにあいた穴がこぶしほどの大きさに広がっていった。
大きな日本家屋。高級外車に乗っている二世帯の旧家らしい。今日の収穫はどうなるだろうか。先程家族で外出したばかりだから、しばらくは帰ってこないだろうが―いつも通り手早く済まそう。
手が通るほどになった穴に手を突っ込み、素早く鍵を開けて大きな縁側の窓をあける。
足音を立てぬよう分厚い靴下に包まれた足を、板の上に静かに置いて、男は家屋に侵入した。
障子を開けると広い客間があった。やはり旧家というべきか、きらびやかな装飾の施された襖と、複雑に彫られた欄間が目に入った。客間の奥にはいくつか伝統工芸品であろう珍しい品々が置かれている。もちろんそんな大きなものは持って帰ることはできないが、男は期待に胸を膨らませ、薄い笑みを浮かべた。
襖の奥、廊下へ出た男は、ほのかな暖かさを感じた。先程まで暖房が付けられていたのだろう。暖かみは右手の部屋から流れ出ていて、そちらが居住スペース、居間であろうことをわかりやすく男に知らせた。居住スペースで通帳やカード類全てを管理する人もいる。男はそちらへ躊躇なく向かった。
案の定、居間のこれまた高そうな和風の引き出しを二、三度乱雑に開けると、薄い半透明ケースに入れられた十数万円の現金と二枚のクレカが見つかった。正解だ。男は素早くそれらをパーカーのポケットにねじ込むと、侵入した縁側から帰るべく、再度客間へ向かう。あまりゆっくりしているわけにはいかない。欲を出さず、もらうべきものを貰えばすぐに退散するのが彼のスタイルだ。
男は襖を開けて、足を一歩踏み出して、
硬直した。
客間の真ん中、畳の上に白い着物の美しい女の子が正座していた。
黒く艶のある髪が肩口で整えられ、前髪は眉の上で切りそろえられていた。照明が消されたほの暗い客間で、大きな双眸をまっすぐと男に向け、微動だにしない。着物は白く、ところどころが灰色がかった模様が美しく描かれており、少女の美しさに、この世のものでないような雰囲気を加えていた。
男はその異様な美しさに一瞬、心を奪われた。魂が抜かれたように少女と目を合わせていた。
だがすぐに男は行動した。見られてしまった。少女が和服であることなど引っかかることはたくさんあるが、とにかくマズい。悲鳴を上げられたくない。
男はすばやく少女に近寄った。年のころは七歳ごろか、脅してやれば大人しくするだろう。ポケットからペンチを取り出し、少女を片方の腕で捕まえて突きつけようと目の前に移動して、できなかった。
「はっ?」
体が動かない。少女の目と鼻の先、左手を少女の頭に向け、ペンチを握った右手を腰のあたりで止めた面白い体勢で、男は固まった。
動く眼球で、少女の方に目をやった。すると少女は、全く瞬きもせず目を見開いてこちらを見たまま、にっこりと笑った。
瞬間、
がっ、と突如としてにぎっていたペンチがこちらに凄まじい速度で向かってきた。
「ひゃあっ!」
男は情けない声を出しながら上体をそらし、それを避けた。だが、腕が、足が―いうことを聞かない。
両腕がペンチをしっかりつかんで、ぶるぶると震えながら、ゆっくりと顔に向かってくる。
どれだけ力を込めても、腕はいうことを聞かない。
両手が激しく震えながら動き、ペンチが大きく開かれる。
男の心で恐怖が爆発した。
「おい!おいおまえなにした!お、おまえ見てないでたし、助けろよおい!」
大きく開いたペンチが、じりじりと、ゆっくりと顔に向かってくる。
少女は相変わらず目を見開いた笑顔でその様を見ている。
「おいなんだよおまえへあっ、ふぁふへふぇっふぇひっひぇ」
男の口が閉じなくなり、少女への声が意味をなさなくなった。大振りの凶暴なペンチが、自らの手で男の口にねじ込まれる。金属が歯に当たり、がちがちと音を立てた。男は震え、浅く何度も荒い呼吸を繰り返し、口の中に広がる鉄の味にえずいた。
「ふぉひっ!おふぁひゃがひゃっふぇんぐぉふぁ!ふぉふぇふぉ!」
間抜けな奇声を発し、苦悶に満ちた男の表情を、少女は大きな瞳でまっすぐに見つめる。ぎりり、と両手は男の意志に反して力を籠め、鈍く光る金属がそれを咥え込んだ。
そして、
「ひっ、ぐあふ、ひゃあああああああああああああああああああああ!」
甲高い絶叫が響き、男の口から白いものがいくつか零れ落ちた。
歯だった。
「えっ、ぐえぅっ、あ、え、歯、おれの、おまえ、うぶっ、おれがっ」
体の自由が戻り、強烈な痛みでその場に崩れ落ちた男はわけのわからないことを呟きながら肩で荒い息をする。その口では、鮮血が面白いほど流れ、ぽっかり開いた穴からピンクの歯肉が顔をのぞかせていた。ペンチの味、血の味がまざって鉄臭いにおいが男の鼻腔を覆い、吐き気を催した。
男はそれでも逃亡の意志を諦めなかった。すぐ前の少女を睨みつけようとうずくまった顔を上げたとき、
「あ…?」
歯のない顔で間抜け面を作った。薄暗い部屋ですぐには気づけなかった。
至近距離で見た少女の双眸は、人間のそれではなかった。
彼女の目には白目がなかった。
それに、爬虫類のような縦に長い瞳孔と、明るいヘーゼル色の虹彩。
その
一瞬固まって、それを理解して―男の心で、恐怖が爆発した。
バケモノだ。鳥肌が立ち、男は少女に背を向け、一目散に逃げた。
先程通り抜けた襖を再び通り、ふらつく足で廊下を何とか走る。
―玄関はどこだ!
見知らぬ旧家の薄暗い廊下は無駄に長い。簡単に頭に放り込んだはずの玄関や窓の位置情報は、全く機能しなかった。
角を曲がるたびに体をぶつけ、口から流れる血で喉を汚しながら走った。居間、トイレ、寝室、あらゆるところのドアを開けた。
しばらくすると、鮮やかな壺の置かれた角の先に玄関があった。
明るい日の差す大きな引き戸。土間には柔らかな陽光が満ちていた。
男はそこに飛び込もうとした。少女に追われていないか後ろを振り返った。
いない。よかった。
男が安堵して正面を向くと、
先程まで誰もいなかった土間に、白い着物を着た少女が横を向いて佇んでいた。
美しい陽光に映えた顔が、ぐるん、と人間にはありえない速度でこちらを向いた。
男は先ほどまで走っていた廊下の方を向き、わけもわからず走り出した。
と、
足がもつれ、その場に倒れ込んでしまった。
荒く、ひきつったような呼吸をする男は後ろを振り向かず、這って進んでいく。その顔は涙と血でぐちゃぐちゃになっていた。
助かりたかった。
ふと、ぺたん、という音が後ろから聞こえた。
ぺたん、ぺたん、と規則正しく、されどかなりの速さで近づいてくる。
少女だ。男は思う。確信する。恐怖にあらがって必死で廊下を這う。
だが。
ぺたん、という音が、男のすぐ後ろで止まった。消えた。
男が恐る恐る振り返ると、巨大な爬虫類の口がこちらを向いてぽっかりと開いているのが見えて、すぐ前を向いて逃げようとして、
足から腰のあたりまで、おぞましい温度の湿ったモノに飲み込まれた。
「ぎゃああああああああああああああああああああ!!」
男はすさまじい悲鳴を上げ、もがいた。だがもがけばもがくほど、腰のあたりにびっしりと当たっている硬い尖った骨のようなものが体に食い込んで、身を削るような痛みを感じた。足は冷たくも温かくもない肉に包まれ、押しつぶされ、骨がきしんだ。
「許して!許して返すからお願いします!」
男はパーカーのポケットから何とか現金とクレカを放り出す。だが。
「ぎいっ!」
体が空中に跳ね上げられ、さらに深く自分の体が咥えられるのを感じた。腹部に細かい骨が無数に刺さり、痛みに伴った悪寒が全身を這いずり回った。
もう一度、体が跳ね、飲み込まれた。
今度は声も出なかった。胸部まで飲み込まれ、潰された肺が空気の固まりを吐き出した。
もう一度。
首もとまで飲み込まれた。肉に締め付けられる足が凄まじい力で潰されて、骨が折れる感触と痛みでひぎっ、と笑いにも似た声が出た。
「たすけ―」
もう一度。
静寂。
〇
「あ、イモリ!」
「それお腹白いからヤモリだよ、ようちゃん捕まえたらだめ!おうち守ってくれるんだから。あ、お義母さんそれ重いから後で持ってきます!先に家上がってて!」
「京子さんごめんねえ、昨日腰やっちゃったから…」
「だいじょぶですよ!」
「はあ、もう土間からあがるのもきついし居間も遠いし…年取りたく…え?」
「お義母さーん、どうしました?」
「どろぼうかもしれないわ!え、これ…血?クレカとかお金散らばってて…おじいちゃんと康太呼んで!」
「嘘!早く警察に―」
守り神 零 @22koa8hako
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