ゴールイン
緋糸 椎
✈︎
「瀬川、ドイツに行ってこい」
「しかし、私の英語力では……」
瀬川のTOEIC得点は520点。一般的な英語レベルとしてはまずまずだが、
「向こうは人手が足りんらしい。サンキューとプリーズが判る人間はみな送ってくれと言ってきている。部署を問わず大勢送り出すことになっているんだ」
「……わかりました」
このご時世、海を渡るとなると家族は心配するだろうが、瀬川は数年前、三十路前に離婚している。送り出す人材としてはうってつけだった。週末までにとりあえずの生活必需品を集めて、瀬川は飛び立った。
✈︎
ハンブルク国際空港に到着したのは夕方だったが、瀬川はホテルには行かず、まず鴨橋運送の現地支社に向かった。タクシーを降りると、「Kamohashi Express Europa GmbH」というロゴが目の前に迫った。ビルの中では大勢の人間が慌ただしく蠢いている。瀬川はまるで銃弾を避けるようにメインオフィスに向かう。
「こんにちは……ただいま日本から来た瀬川と申します……」
すると、携帯片手に話し込んでいた中年男が、通話を中断していった。
「新しい出張さん? カスタマーセンター行って!」
「カスタマーセンターってどこですか?」
「そんなの、その辺で聞いてよ! こっちは忙しいんだから!」
仕方なく自力で紆余曲折しながらカスタマーセンターにたどり着いたが、中は異様な光景だった。数十台ものパソコンを前に、インカムをつけたスタッフが休む間もなくペコペコしながら話している。唖然としていると、後ろから背中を小突かれた。
「新入りだね、言葉は?」
「日本語と英語を少し……」
「じゃあ、あそこの席に座ってインカムつけて。着信したら配送番号聞いてパソコンで検索、あとはそれ見ながら対応して」
たったそれだけの説明で不安をかかえたまま、最初の着信があった。
「先月送った荷物が止まってるってどういうことだ! 大事な商材なんだぞ! 取引停止になったらどうするんだ!」
瀬川は返答に窮した。パソコンの画面も模範解答なんて教えてくれない。とその時、真横からスッとメモ用紙が差し出された。瀬川はほぼ反射的にそれを読んだ。
「……ご登録いただいているメールアドレスにURLを送りますので、お手数ですがそこで調査依頼をしていただけますでしょうか」
メモの通りに話すと電話の主は引き下がった。瀬川はホッとして、メモをくれた隣人に礼を言おうとしたが……
(え、詠美!?)
そこには詠美すなわち瀬川の元妻と、瓜二つの女性が座っていた。
「……どうかされましたか?」
先に聞かれて瀬川はドギマギする。
「あ、あの、これ、ありがとうございました!」
すると彼女はニコリと微笑み返した。
「どういたしまして」
(まさか……本当に詠美? そんな筈はないよな……)
などと考える間もなく、次々と電話はかかってくる。午後8時、受付終了時間となった時には瀬川はすっかり消耗していた。ともかくこれで一息つけるかと思いきや……
「おーい、手の空いてる者はこれからアムステルダムに向かってくれ!」
瀬川は疲弊していたが断れる空気ではない。みな数台の車に分乗し、大勢で夜中のアウトバーンをすっ飛ばしてオランダに向かう。優に200キロは超えている。
「兄ちゃん、気分悪いのか?」
運転手が気を使う。名前は
「いえ、大丈夫です」
「あんた今日着いたばかりだろ、無理するな。オレの大事な車でゲエゲエされても困るからな」
斉藤はアクセルを緩めた。メーターを見ると130kmだったが、随分ノロノロ運転に感じる。少し落ち着いた瀬川はきいてみた。
「これからアムステルダムまで何しに行くんですか?」
「行方不明の荷物探しだ。先週、嵐でキールやハンブルクの港が使えなくなってアムスに荷物を移したんだが、作業員の仕事が杜撰でな、多くの荷物が紛失して大騒ぎになってるのさ」
「……どうしてこんなに混乱してるんですか?」
「コロナ禍の影響だ。港の作業員や配送員も感染で人材不足、そこに航空機や船便は本数制限。その上、通販の需要が異常に高まっている。運べないのに次から次へと荷物が来るもんだから大混乱。コンテナは船上や港に積んだまま放置されて、FedEx、DHL、UPSも麻痺状態だ。だけど日系企業にとっちゃ『お客さまは神様』だ。それでべらぼうに高い料金払ってでも、彼らはオレたち日系運送会社に依頼する。つまりオレたちは預かった荷物を、命に替えてでも〝ゴールイン〟させなくてはならないわけだ」
瀬川は顔が硬直した。
「心配するな、少なくともオレはそんな風に考えちゃいないさ。お客さまもオレたちも神様じゃねえんだ」
斉藤は笑いながら瀬川の頭をはたいた。
アムステルダム港に到着した一行は、数枚のリストを手に、手分けしてコンテナ調査に向かった。瀬川は斉藤とペアになったが、コンテナに入ると、斉藤が小声でいった。
「おい、そこの物陰で寝とけ。その間オレが探しておいてやる」
「そんなわけにはいきませんよ!」
「いいから休め。オレとしてもな、せっかく来たヘルプ要員をこんなところで潰されたくねえんだ」
瀬川はその言葉に甘えて物陰で休んだ。数分もしないうちに深い眠りに落ちた。
翌朝からもそんな調子で顧客の対応や荷物探しで過酷な毎日だった。非常時は承知の上だが、慣れない環境での冷遇は体力的にも精神的にも消耗が激しい。ただ、斉藤だけはフレンドリーで、瀬川も彼には心を開いて気楽に話せた。
「えっ、斉藤さんもバツイチだったんですか!?」
「もってことはあんたもバツイチか?」
「ええ、妻のことは愛していたんですけど、どうも彼女の方は僕のことが退屈だったみたいで」
「ははは、あんた若え頃遊んでねえだろ」
「……ええ、そうですね」
「遊んでねえ奴は女心が分からず、結婚してから女房をくさらすんだ。まあオレは逆に遊び癖が抜けなくて女房に愛想尽かされたクチだけどよ」
と下卑た笑いを浮かべたかと思うと、斉藤はグイと近寄り、小声で言った。「あんた、金森由依に気があるだろ?」
瀬川は顔が赤くなった。斉藤はそらを見てニヤニヤする。金森由依とは、初日にメモをくれた、元妻似の女性のことだ。
「気になっているのは確かです。実は、別れた妻にそっくりで……」
「ほお、面白え。よし、今度彼女と三人で飲みに行くか」
「えっ、そんな……」
「オレの方からうまいこと言って誘ってやるさ。たまには息抜きくらいしろよ」
そしてその週末の夜……ゲンゼマルクトの酒場で集まることになった。時間は七時を過ぎていたが、緯度の高いハンブルクの夜は明るい。瀬川が酒場に着くと、斉藤から電話が来た。
「悪いな、急な仕事で行けなくなった。あとは若い二人で楽しんでくれ」
「二人でって……ちょっと!」
携帯を懐にしまうと、由依がやって来た。
「斉藤さん、来れなくなったそうです」
由依は「そうですか」とさして気に留めるでもなく、席についた。だが、彼女から唐突に出た言葉に、瀬川は面食らった。
「あの……あなたは瀬川さんですよね?」
「え? もちろん、そうですけど……」
「そうですよね、失礼しました。実は……あなたは私の婚約者にそっくりなんです」
瀬川はさらに驚いた。まさか自分も彼女の婚約者に似ていたとは。
彼女の話によれば、婚約者は鴨橋運送の社員で、コロナが始まった頃にハンブルクへ出張に来た。しかし嵐の日に港で波にさらわれ、そのまま行方不明となった。彼女は婚約者が現れたらすぐ会えるように、鴨橋運送ハンブルク支社に現地入社した。そうして彼を待っているが、一年ほど経っても発見されないとのことだった。
「そんな時、瀬川さんが現れてびっくりしました。あまりに似ていらっしゃったので……」
「そうでしたか……」
実はあなたも別れた妻に似ているのです。瀬川はどういうわけかその一言が言い出せずにいた。
次の日、金森由依は会社に来ていなかった。その次の日も、またその次の日も。入れ替わりの激しい職場で、あまり気に留める者はいなさそうだが、斉藤は少し気にしていた。
「なあ兄ちゃん、飲みに行った時、金森由依に何か言ったのか?」
「いえ、何も。ただ、彼女の行方不明の婚約者に僕が似ていると、そんな話をしていました」
「それはまた、因果な話だな」
結局、瀬川と飲みに行った翌日、彼女は会社を辞めていたのだった。理由は気になるが、分からないまま滞在期間は終わり、瀬川は帰国した。
それから数ヶ月後、瀬川に会社宛てでエアメールが届いた。差出人はYui Kanamoriとなっていた。瀬川は自販機コーナーへ行き、封を開けて中身を取り出した。
瀬川海斗様
お元気ですか。私は今、オーストラリアにいます。
ハンブルクで私は、あなたが本当は婚約者なのではないかとひそかに期待していました。一方で、そんなはずはないと頭では分かっていましたが、きっとご迷惑だったことでしょうね。
でもゲンゼマルクトでご一緒した時、婚約者の幻が現れたのです。そうしてその幻は語りました。『もう僕を探さないで』と。ええ、それはお酒に酔って見えた幻覚です。でもそれは彼からのメッセージに思えました。それで私は会社を辞め、地球の反対側、オーストラリアまでやって来ました。日光に恵まれたこの国で、私の傷心は今ではすっかり癒えました」
それを読みながら瀬川はオーストラリアの情景が目に浮かぶようだった。そこに行ってみたい、そして彼女とまた会いたい、そう思った瀬川は英語を必死で勉強し、TOEICで700点以上を獲得した。
数ヶ月後、瀬川は課長に呼び出された。
「瀬川、オーストラリアに行ってこい」
ゴールイン 緋糸 椎 @wrbs
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