もう約束はしない
nobuo
☂
ぽつぽつと
時刻は19時50分。嫌な予感に眉根を寄せつつ出ると、それは恋人からの電話で、予感通り今夜の約束
『本当にごめん。前から約束してたのに』
「…仕方ないわよ。仕事なんでしょ」
ダイニングの椅子に腰かけ、ぐつぐつと煮える鍋の火を弱めながら、サラダ用にちぎったレタスを弄ぶ。
オーブンではハーブで香り付けしたチキンがじっくりと焼かれ、キツネ色になった皮からジュウジュウと油が滲み出している。
「遅くても来られるなら待ってるけど?」
『あ…いや、まだかなりかかりそうなんだ。だから悪いけど…』
奥歯に物が挟まったように、どこか言い難そうな彼の返事は最近ではいつものことで、私は聞こえないように小さく溜息を零した。
「そう、わかったわ。じゃあね」
『ああ、また』
沈黙したスマホを握り締め、何も映さない画面にバカと悪態を吐いた。
こんな風に約束を反故にされるのは何度目だろう。カレンダーにつけたバツ印はすでに二桁を超えている。
頑張りすぎて体を壊さないようにね、という気遣いのセリフすらもう出てこない。
次はいつなら会える? と最後に聞いたのはいつだった?
LINEに返信がないのは忙しすぎて見る暇がないからだと信じていられたのは、どれくらい前までだった?
「また」なんて言わないでほしい。今は次の約束をすること自体が嫌でたまらないから。
「…もう私に気持ちが無いのなら、さっさと別れればいいのに」
会えない日々を鬱々と過ごすくらいなら、いっそすっぱりと振ってくれたらいい。そしたら———―――きっと暫くは泣いて過ごすけれど、そのうち諦めがついて新しい恋を探せるのに。
すっかり食欲が失せた私は、鍋の火を止めレタスを冷蔵庫に仕舞い、エプロンを外して椅子の背に掛けると、テーブルの上に置いておいた洋菓子店の箱を掴んだ。そしてそれを躊躇することなくゴミ箱に放り込み、キッチンを離れた。
そのままベッドに向かい、俯せに倒れ込む。お気に入りのキルトケットに顔を埋めて目を閉じた。
「♪happybirthday to me……」
歌いながら思い浮かべる彼の顔はまだ付き合い始めたばかりの頃のもので、最近のように目を逸らしたりせず、真っすぐに私を見つめてくれる。
彼と知り合ったのは、四年前の春だった。入社したてで右も左もわからない私を、丁寧に、時には厳しく指導してくれた先輩だった。
尊敬していた。多分その時点では他意はなかった。
状況が変わったのはその翌年のバレンタインデー。終業後、雨が降っているのに傘を忘れたと言う彼を私の傘に入れ、一緒に駅までの道のりを並んで歩いていた時、可愛らしくラッピングされた小さな箱が入った紙袋を差し出され、付き合ってほしいと告げられた。
ビックリした。まさか自分がチョコを貰って告白されるなんて思わなかったから。
彼に恋をしてはいなかったけれど、好ましい人柄だとは思っていたから、私は彼の気持ちを受け入れた。
目を丸くした彼の顔がだんだんと赤く染まり、嬉しそうに、照れ臭そうに笑ったのがとても可愛かったと印象に残っている。
お互いのことを一つずつ知りながら気持ちを深めてゆくスローテンポな恋は、些か
———順調だった二人の関係に異変を感じ始めたのは、去年の春に人事異動で私が部署を変わった頃だったか。
急激に彼とすれ違い始めた。
彼は新しく立ち上げたプロジェクトの主任となり、チームを率いるのに懸命だった。
私もそれまでと違う仕事内容や人間関係に慣れるのに必死だった。
それでもできるだけ週末はどちらかの家に泊まり、ゆっくりと恋人同士の時間を過ごしていたのだが、いつしか彼は多忙を理由に約束を破るようになった。
毎回彼は私に悪いと言って謝った。
私は彼を困らせたくなくて、いいのと言って許した。
本心ではなかった。本当は約束を反故にされる度に悲しくて腹立たしくて彼に詰め寄りたかったけれど、私は理解あるフリをして許してきた。
でも——————
『え? その日は主任、定時に退社したはずだけど』
クリスマスイブまで仕事で遅かったのだと愚痴をこぼした私に、首を傾げた元同じ部署の友人が告げた一言は、鋭い
「もう、疲れちゃった…」
ぱちぱちと雨粒が窓ガラスに当たる音を聞きながら、私は静かに涙をこぼした。
*
事実上すでに壊れかけていた”恋人同士”という私たちの関係は、一人で過ごした誕生日からひと月後、完全に崩れ去った。
なぜならロビーの受付に座る私より二つ年下の後輩の女の子が、左手薬指を飾るリングを友人に見せびらかし、私の恋人であるはずの彼と結婚するのだと言っているのを聞いてしまったからだ。
それは奇しくもバレンタイン当日で、化粧室の個室で彼女の嬉しそうな声を耳にした私は、愕然としながらもどこかで解放された気持ちにもなった。だから、
「ごめん。言わなければと、ずっと思っていたんだが…」
その日、約束していないにもかかわらず、彼が突然私の部屋へ押し掛けてきても冷静でいられた。
雨の中駅から傘もささずに来たのかびしょ濡れの姿で、玄関先でわざとらしいほどに肩を落として項垂れた彼は、ごめんと何度も頭を下げた。
「許してほしいとは言わない。全面的に俺が悪いのだから」
一言も喋らず無表情で、ただただ彼の言い分を聞いている私に、彼は苦し気に眉根を寄せ、決定的な言葉を口にした。
「頼む。…どんな償いでもする。だから、俺と———別れてほし」
「いいわよ」
自分でも驚くほどスラリと了承の言葉が出た。
実際、目の間に彼がいてもなんの感慨もなく、未練などという気持ちも欠片もなかった。
「え?」
あっさり受け入れられると思っていなかったのか、彼はぱちくりと目を見開き、信じられないものでも見るかのように、まじまじと私の顔を見つめている。
「どうしたの? 変な顔をして」
「いや…その」
「そう? 用がそれだけならもういいかしら?」
明日も仕事だからと言外に帰れと告げると、彼は納得しきれないといった表情ながらも玄関のドアノブに手を伸ばした。
「ああ、そうだわ。私のアドレスは消しておいてね」
私もそうするからと後ろ姿に声を掛けると、玄関から半分外に出た彼は弾かれたように振り返り、私の腕を掴んで引き寄せた。
濡れて冷え切った腕の中に囲われ、きつく抱きしめられる。
「俺は…、やっぱりお前が」
「離して」
「お前と別れるなんて、そんなことできるはずないのに!」
「離れて」
「俺は…、俺はなんて馬鹿だったんだっ」
「…」
ドラマの主人公にでもなったつもりなのか、痛みを堪えるような苦しそうな声で独り言ちる彼とは裏腹に、私の気持ちはどんどん冷めてゆく。
あまりにも身勝手すぎる態度と言い分にイラついた私は、彼のネクタイを力任せに引っ張った。
「いい加減にして。自分の世界に浸りたいのなら、ほかでしてちょうだい」
「な…そんな、お前はいつだって俺を許してくれて…」
「そうね。確かにこれまで何度約束を破られても、私は何も言わずに許してきたわ。先月だって二人でお祝いしようって約束してたから、準備をしてあなたが来るのを待ってたのに…」
「先月って……ぁっ!」
やはり忘れていたらしい。漸く思い至った彼は表情を強張らせた。
「これまであなたにキャンセルされた日を、私、ちゃんと数えてるの。そしてすっぽかされた誕生日で二十一回目。…もう十分別れる理由になるはずだわ」
許してほしいとは言わないと言ったくせに、当たり前のように許されると信じていた彼。
そんなの無理に決まっているのに。
粉々に壊れた物は、もう元に戻ることはない。それは実際に存在する物質だけでなく、目に見ることや触れることが叶わない”心”だって同じだ。
きれいに張り合わせ、元に戻ったように見えても
「…彼女と別れれば俺とやり直してくれるか?」
あまりにも身勝手なセリフを躊躇いなく口にする彼に、私は苛立ちを通り越して呆れ果てた。
「あなたの気持ちは関係ないわ。ただ、私があなたを好きでいるのをやめたの」
待つことに疲れたから。
許すことに疑問を感じるようになったから。
期待することに嫌気がさしたから。
「だからもうここには来ないでください。
「!」
ネクタイから滑らせるように手を離すと、彼はショックを受けた顔でふらりと後ろによろめき、今度こそ玄関を出て行った。
(終わった。…やっと)
遠ざかる靴音を聞きながら、玄関の鍵を掛ける。
冷たいドアに額を預けて目を閉じると、胸は苦しくてツラいのに妙な達成感に満たされている。
雨に濡れた彼にしがみ付かれたせいですっかり冷えてしまった体を抱きしめ、私は部屋へと戻った。
湿ったルームウェアを脱いだ際にふと目に付いた、所々バツで日付を消されたカレンダー。もう二十二回目のバツ印を付ける日は絶対に来ない。
雨の日に始まり、雨の日に終わった恋にさよならを告げ、私はカレンダーを外した。
もう約束はしない nobuo @nobuo
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