幼馴染や親友に裏切られたのをきっかけに堕ちていく男と隣で微笑む最低な女

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あ゛あ゛……

 大学受験が終わったら付き合う約束をしていた幼馴染に彼氏ができた。強引に迫られて身も心も許してしまったようだ。「ごめんね、こんなつもりじゃ……」それ以降何を言っていたか覚えていない。しかもその相手は俺の親友だった。いや、親友だと思っていた。あいつは俺の恋を応援するって言ってたのに。

 サッカー部でエースとして必死に練習してきたが、三年最後の大会前の練習で怪我をして試合に出場することができなかった。代わりに俺の怪我の原因となった後輩が出場した。だが良くも悪くもその後輩の活躍でいいところまで勝ち抜くことができ、俺の怪我のことなどすぐに薄れていった。仕方のないことだと自分に言い聞かせていたが、故意にやったという噂を聞いたのは引退した後だった。

 俺のことが好きと毎日言い寄ってきた学校で一番可愛いと有名な後輩のマネージャーも、いつの間にか手のひらを返してその後輩と付き合っていた。


 歯車が狂い精神が不安定になっていた俺は、しまいには受験に失敗した。












 高校を卒業した現在、俺は浪人生という名を借りた中身のない何者でもない男となっていた。卒業間近の時期から学校でも誰とも喋らなくなった俺に、今現在連絡を取っている人など当然いない。寂しいという気持ちより、誰とも関わりたくないと思う気持ちの方がはるかに大きい。


 親は基本何も言わない、というよりどうしていいのかわからないのかもしれない。それほど今の俺と以前の俺は違うのだろう。最初は色々と聞かれたが、徐々にそっとしておいてくれるようになった。ただ見捨てたわけではなく、気にはかけてくれている。その優しさが胸に突き刺さることもあるが。


 卒業して数か月は家を出ることができなかった。外に踏み出すのがただただ怖かった。でも閉じこもってばかりだと人は負の感情しか湧き出てこないことを知った。「生きてる意味あるのかな……」「もういっそ死んでしまおうかな……」そんなことを思うようになってから、無理にでも外に出ることを決意した。正直テレビで報道されている自殺のニュースなどを聞いて「死ぬなんてもったいない」と思っていたが、今はその気持ちが痛いほどわかる。どんな些細なことでも、どんなくだらないことでも、その人にとっては耐え難いことで、その苦しみは本人しかわからないのだ。案外、人とは脆いものだ。今俺を繋ぎとめているのは両親への「申し訳ない」という気持ちだけだった。


 外出の目的地は少し離れたところにあるダムだ。体がなまらないようにランニング目的で通っているが、そこへ行くだけで体力を使ってしまうのでダムに着いたところで走っていない。サッカー部の時は一周三キロあるダム周りを三周するのが日課だったが、今は走れる気がしない。精神と相まって体力も大分衰えている。


 ではダムに行ってまで何をするのか。答えは何もしない。開けた場所にあるベンチに座り、眼前に広がる貯水池をただぼーっと眺めるだけだ。日差しと爽やかな風を浴びながら、何も考えずに揺らめく水面を見ているだけ。その時間と空間が俺にとって一番のやすらぎだった。


「今日もいい天気だね」


 一人分の間隔を空けて俺の隣に女性が座った。ランニングを終えた後だとわかる額の汗をぬぐいながら、水分を補給している。ごくっごくっ、水が喉を通る音を聞いているとこちらまで喉が渇いてくる。


「あ、もしかして欲しいの?」


「……いらないですよ。俺は走ってないんで」


「相変わらずトモキ君は走らないんだね」


「まあ……俺はここから景色眺めてるだけで十分ですよ」


「そっか。そういえばこの前進めてくれた漫画全部読んだよ。面白かったー」


「もう読んだんですか?早いですね」


「読み始めたら止まらなくって。一気に読んじゃった」


 当たり障りのない会話。俺は正面を向いたまま、女性と目を合わせることなく会話を続けていた。

 この女性の名前は七瀬リナ。俺が雨の日以外毎日ここに通うようになってから知り合った人物だ。と言っても年齢は二十歳ということと、大学生ということくらいしか知らない。七瀬さんもこの場所に頻繁に通っているらしく、来る時間帯も同じなのでよく顔を合わせていた。次第に挨拶をするようになり、いつの間にか隣に座って世間話をするようになっていた。


「最近どう?勉強捗ってる?」


「……まあ……それなりですかね」


 七瀬さんには俺が浪人生だと言ってある。勉強などしているわけないが、半分は事実なので問題はない。


「もしわからないところがあれば年上のよしみで私が教えてあげよう!って言ってもそんなに賢くないけどね」


「結構です」


 俺は七瀬さんが苦手だ。

 ランニング後の化粧していない状態でも美人とわかる顔、引き締まったモデルのようなスタイル、こんな俺とも話が続くコミュニケーション能力と性格。これだけ持ち合わせているのだ、さぞ充実した生活を送っているのだろう。今の俺には眩しすぎる。それにどこか昔の俺と重なる部分がある。七瀬さんほどではないが俺も以前は充実した生活を送っていた。七瀬さんといるとまるで鏡を見ているかのようにあの頃の俺を思い出し、嫌でも今の自分と比べてしまう。だから俺は七瀬さんが苦手だ。


 では何故無視しないのか、それは逃げるのが嫌だからなのかもしれない。自分でもまだよくわかっていないが、ここで七瀬さんと接することをやめてしまえば過去の自分から逃げたように感じる。一度逃げてしまえばこれからも繰り返してしまうと、無意識に思っているからなのか。今の俺はすでに手遅れかもしれないが、せめてもの意地のようなものだ。あとは単純に七瀬さんの人柄のおかげか。

 場所や時間帯を変えれば話す話さない以前に会うこともないだろう。でもそうしないのは、苦手だと言いつつ七瀬さんとの会話を楽しみにしている自分もいるのだろう。七瀬さんにとってはなんてことのない日常の一齣だが、俺にとっては唯一の人との関わりでもある。


「そろそろ聞いてもいいかな」


「何をですか?」


「トモキ君……何かあったでしょ?」


 それが直近に対しての質問ではないことはすぐにわかった。

 七瀬さんが踏み込んだ質問をするのは初めてだった。それまでは俺が避けていたこともあって、お互いの込み入った事情には触れないような浅い会話しかしてこなかった。七瀬さんも察していたのか、話題にならないように配慮してくれていたのかもしれない。だから会話を続けてこれたのだと思う。もし早々に過去のことなどを聞かれていたら、俺は無視をしてダムにすら来なくなっていただろう。

 だがこの時は、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。気がつけば顔を七瀬さんの方に向け、目が合っていた。その瞳は優しくも真剣な眼差しだった。


「えっと……」


 嫌な気はしなくとも言い出す勇気もない。考えもまとまらず、どうすればいいのかわからなかった。


「言いたくなかったら無理に言わなくてもいいんだよ。でも軽い気持ちで聞いてるわけじゃないのはわかってほしい」


「それはわかります……でも……どうしたら……」


「ねえ、せっかくだし一周歩かない?ゆっくりでいいからさ。話す話さないは置いといて、気分転換に。今日みたいないい天気の日は特に気持ちいいよ?」


 言い淀む俺に七瀬さんは優しく笑ってくれた。「七瀬さんはいい人だ、でもまた人と関わるのか?もう充分わかっただろ?」心の声は俺を縛り付ける。それでも俺は歩くことを決めた。行き場を失って立ち止まっている俺は、そうせずにいられなかった。


 最初の数分はお互い無口だった。

 俺は久しぶりのコースに懐かしい記憶を重ねていた。視線は脇にある木々に向けながら、隣に七瀬さんを感じて歩く。

 沈黙を破ったのは七瀬さんだった。


「私ね……君に謝らないといけないことがあるんだ」


「……謝る?なんのことですか?」


「嘘ついてたの。私、君に大学生って言ったけど、本当は違うんだ」


 唐突に打ち明けられた内容に驚きはしたが、妙に俺の心は落ち着いていた。今まで嘘をついていたということになるが、騙された気分でもなかった。


「本当は君と同じ浪人生なの。……ううん、違うか。浪人生と言えるほど何もしてないから実質ニートみたいなもんかな」


「……そうだったんですか」


「意外と驚いてないね?」


「驚いてますよ。ただまあ……もしかして年齢も?」


「歳は本当だよ。君の一個上の学年の二十歳だよ」


 七瀬さんの印象からすると信じがたい話だが、嘘をついているようには見えなかった。色々と聞きたいことや言いたいことはあったが、後回しにして黙って聞くことにした。


「私ね……高校の時いじめられてたんだ。きっかけはよくある恋愛関係だったよ。自分で言うのもあれだけど、私結構モテるみたい。今まで多くの人に告白されてきて、その分女子たちの反感も買いやすくて。だから小っちゃい嫌がらせはちょくちょくあったんだけど、なんとか上手くやってたの。いじめが本格的になったのは初めて彼氏ができてからかな。私が二年生の時に三年生で当時の生徒会長だった先輩に告白されて付き合ったの。その先輩はかっこよくて勉強も運動もできて、何より優しかった。だから私も好きになったんだけどね。でも先輩のことが好きな人は多くて、そこから学校のほとんどの女子は敵に回ったわ。嫌がらせ行為も当然のように増えた。先輩が卒業してからはさらに過激になって、次第に男子も女子に同調するようになって、私の味方は誰一人いなくなった。でも一年我慢すれば先輩と同じ大学に通って楽しくなるはず、そう思って毎日耐えてたんだけど……途中で先輩が浮気してることがわかったの。卒業してから返信が遅くて反応も薄かったからおかしいとは思ってたんだけどね……問い詰めたらすぐに認めて、それどころか開き直ってた。『お前全然やらせてくれねーじゃん』だって。それから学校に行かなくなって、何もする気になれなくて……一応受験はしたけど当然失敗して……今に至るって感じかな」


 顔には出さなかったが、俺の心は酷く痛んだ。今まで勝手に想像していた七瀬さんと全く違っていたことに驚くより、おこがましくも同情していた。

 七瀬さんも俺と同じ、いやそれ以上に酷い過去を経験していたのだ。狂った歯車のせいで今もなお苦しんでいる。七瀬さんは笑っているが、その笑顔の裏から読み取れる悲しみの感情がそれを物語っている。


「ずっと引きこもってたんだけど……せめて体だけは動かそうってここに通ってたの。そしたら君を見つけたんだ。……もう全部話しちゃったから聞くけど……トモキ君も私と同じじゃないのかな?」


 苦手だと思っていた理由も、楽しみにしていた理由も、そもそも会話が続いた理由も、今までの七瀬さんへ抱いた感情全部に納得した。

 七瀬さんの深く綺麗な瞳の前に、最早嘘をつく必要はない。


「……なんでわかったんですか?」


「やっぱりね。そりゃわかるよ……一年前の私とそっくりだったんだから。表情も、雰囲気も、行動も……。不謹慎かもしれないけれど、トモキ君を見つけた時少し嬉しかったんだ。仲間を見つけたみたいで……だからトモキ君の話も聞かせてくれないかな?」


 俺は全てを話した。幼馴染との約束、親友の行い、部活動での出来事、大会の結果、後輩たちの関係、そして受験のこと、今まで溜め込んだ分を一気に吐き出すように余すことなく全てを話した。

 七瀬さんは時折背中を優しくさすりながら黙って聞いてくれた。それがあまりにも暖かいものだから、知らぬ間に目から涙が溢れていた。

 話し終えたところちょうど一周していたようで、元いたベンチのある場所に戻っていた。


「辛かったんだね。わかるよ、その気持ち」


 くしゃくしゃの顔を七瀬さんは抱きしめてくれた。俺よりも七瀬さんのほうが辛いはずなのに……。


「もう少し座って話さない?」


 俺と七瀬さんは再びベンチに腰をかけた。今度は、空いていた一人分の間隔は無くなっていた。


「トモキ君はこれからどうしたい?」


「俺は……」


 七瀬さんに全てを打ち明けたところで行き場がないのは変わらない。このままでは駄目なことはわかっているが、何をすればいいのかもどこに行けばいいのかもわからない。


「難しいよね。わかるよ。私もそうだったもん。でも今は違う。私には君がいて、君には私がいる。これは私からの提案なんだけど……トモキ君さえよければ私と一緒に逃げませんか?」


「逃げる?どういうことですか?」


 もうすでに現実から逃げているようなものだ。今更どこへ……。


「文字通りだよ。遠くでも、すぐ近くでも、どこか違う場所に二人で行こうってこと。転々とするのも良し、気に入ったら長くいるのも良し。やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。そんな風に場所、時間、現実から逃げながら都合よく生きていこうよ」


 隣で優しく微笑む美人の口から出たとはとても思えないほど、それは人として最低な言葉だった。子供が聞いたら馬鹿にされ、大人が聞いたら呆れられる、そんな発言だ。


「そんな風に生きていけるなら……俺だってそうしたいですよ。でもそんなの許されるはずがない」


「許されるって誰に?なんで自分の生き方に誰かの許しが必要なの?強いて言うなら家族だけど、そのために家を出るんだよ。迷惑をかけないようにね。心配はかけるかもしれないけど……もう高校も卒業してるしね」


 言われてみればその通りかもしれないが、そんなに簡単な話ではない。


「多分だけど君が考えているのは世間体とかでしょ?そんなのどうだっていいじゃん。他の人がどうとか私たちに関係ないよ」


「理想論ですよ。そんな生活いつまでも続くわけがない」


「続けれるとこまで続ければいいよ」


「でも……そんなのやっぱり間違ってる。今だって間違ってるのはわかってる。本当は人としてやらなきゃいけないことがあるのもわかってるんですよ」


「やらなきゃいけないことなんてないよ。あったとしてもどうだっていいじゃん。何をやりたいかだけを考えようよ」


 今の俺に失うものなんてない。何故七瀬さんの差し出す手をすぐに取れないのか自分でもわからない。明確な理由があるわけでもなく、罪悪感のようなものが邪魔をしているのか。それを軽くするためにより多くの言い訳のような都合のいい理由を求めているのか。


「トモキ君はこのままここでぼーっと過ごすつもり?いずれは前を向いて歩き出せると思ってるの?もしそうなら残念だけど無理だよ。少なくとも当分は先の話だよ」


「……なんでそんなのわかるんですか」


「わかるよ。言ったでしょ?一年前の私とそっくりって。私も一年前はいつかは立ち直れるって思ってたよ。でも無理だった。変化と言ったらここで走るようになったのとバイトを始めたくらいだよ。だから今も私はここにいる」


 七瀬さんは立ち上がり、俺の正面に立って向かい合った。


「君が進むはずだった道は私が先に歩いておいたよ。だから、これからは一緒に歩いてくれませんか?」


 その言葉と同時に七瀬さんは俺に向かって手を差し出した。将来のことなど微塵も考えていないその手は、俺が今一番欲しているものなのかもしれない。

 七瀬さんは本来俺がこれから体験するであろう孤独な時間をすでに過ごしているんだ。その時間をわざわざ俺が過ごす必要はないと教えてくれているんだ。

 口よりも先に手は動いた。俺は七瀬さんの手を取って優しく握った。七瀬さんもまた優しく握り返した。


「言っとくけどこれは救いでもなんでもないよ。あとから言うのもずるいけど、これはただの逃亡。行先は地獄かもしれないし、何もないかもしれない。それでも―――」


「いいんです。俺はただあなたの隣にいたいと思っただけですから」


「やっと素直になったね。私も君と一緒ならどこへでも」


 これは最低で無責任な俺たちの、どうしようもなく身勝手で都合のいい逃避行の物語。

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