最強英雄奇譚の前日話――災厄<嘆きの魔女>の誕生と少年の逃亡

真己

災厄<嘆きの魔女>の誕生

「はしって」

 ぼんやりとした声が、黒い霧で霞む先から届いた。


「走って、ノル」

 今まで、少年が何度も聞いてきた声だ。空に消える響きは、優しく甘い。愛おしさが込められ、女は少年の名を呼んだ。


 宵闇の最中に。


「……ねぇ……」

 少年ノルは、建物の残骸が散らばる道で震えていた。目の前の惨状に腰が抜けている。湿った土の感触が、ズボンから肌に染み入るが、感じている暇もなかった。


「みーれ、ねぇ」

 縋るように、霧の向こうの女を呼ぶ。


 今よりずっと幼いときから、自分を可愛がってくれたお姉さん。魔法が使えて、街の誰よりも強くて。どんな人にも手を差し伸べる、大好きなお姉さん。


 瓦礫が今にもノルを押し潰しそうな状況で、彼をただ眺めているなんて、あり得ないのに。なぜ。


 灯がかき消された暗闇と、住民が死に絶えたような静寂に、ノルは泣いていた。

 こわい、こわい、こわい。

 小さな胸を、恐怖が締める。身を縮こめ、頭を庇っていた。ぼろぼろ流れる涙が、地面を濡らす。


 それも、闇では見えない。


「だめよ」

 ゆらりと、ミーレの姿が空中に揺らめく。

 地につくほど長いローブと髪のシルエット。

 彼女の髪は、そんなに長かっただろうか。

 彼女の姿は、なぜ浮いているのだろうか。


「涙はぬぐってあげられないの」

 そう告げながら、ミーレが霧から歩み寄った。

 ようやく顔が見えると思ったノルは、次の瞬間、息を呑む。


「ひ……っい」

 そこにいたのは、ミーレねえじゃなかった。

 

 美しくも親しみぶかった相貌は、時を止めた氷のように、温もりを失っている。

 赤へ変色した瞳からは黒い涙を流し、頬を汚していた。

 普段なら綺麗に結われた髪は、バラバラに散らばり、薄紫色に発光している。

 「自慢のローブ」と笑っていた上級魔法使いの証は、ズタズタに引き裂かれ、かろうじてミーレにまとわりついていた。


 宙に浮くのは、ミーレねえ、だったものだ。

 

 ノルは、本能で理解する。

 いや、本当はとっくに分かっていた。目の前の女が発する魔力は、人間のものじゃなかったからだ。包み込むような魔力は消え失せ、触れたものから何もかも奪おうとする人外の魔力が蔓延している。


 アレは、魔だ。

 アレは、<厄災>だ。


 ミーレねえは死んだ。もう、死んでいた。

 街を紫の光線が包んだとき、女は人間を捨てていた。

 人が<厄災>に転ずる世界で、ありふれた、ありえない光景。


 ノルは知る。

 今までの日常は壊れた。大好きな両親も、優しかった街の人も、未来も、全部死んでしまったのだ。


 いや、<厄災>に問いかければ、その思いは否定されるだろう。

 彼女の日常は、とっくに壊れていたのだ。

 

 しかし、それをノルに伝えるつもりはない。

 怯える幼子に、ミーレねえだった<厄災>は、強張った口角をあげる。

「いい子、いい子」


「大事なこ。愛しいこ」

 夢に詠うように、<厄災>は重ねた。

 ――だから、


「ノル、わたしの手がとどかないところまで、はしって」


 「逃げろ」と言ってくれたなら、僕はっ……、僕は。

 少年は、いつものようにの言葉に従った。

 振り返りもせず、街の外へと走る。走る。走った。


「いとしい人にはいきてほしいの」

 ――だって、逃げてといったら、固まっちゃうでしょ、君は。


 命が。破壊が。

 ぺしゃりと潰した人間たちは、生命の危機に何もできないまま死んだ。命がかかったとき、適切な行動が取れるのは三割程度だけ。

 それでも、


「だって、あのこには、なんのつみも、ないから」


 寂しげに、女が呟く。

 ノルが視界から消え、正気が薄れていく。

 絶望が、失望が感情を殺して、全てを嘆きに塗り替える。


 災厄<嘆きの魔女>の誕生は、誰にも祝福されることなく、街を終わらせた。



†††††


災厄#268

<嘆きの魔女>

危険度★★★★★

優秀な魔法使いの女が、実力を認められなかった失望から<災厄>へ堕ちたとされる。


誕生当時は生まれ故郷の街を全壊させ、その余波は近隣の街にも及んだ。街の生存者は十数名の子どものみ。

破壊と殺害をしつくした彼女は、現在は街の跡地で眠りについているとされる。


伝聞の形を取るのは、討伐に向かった騎士達が全滅したためだ。

彼女の領域には、生を嘆き、世に絶望しながら自殺・他殺を行う呪いが蔓延している。そのため、何人たりとも近付くことができない。


その特性から、現状維持が求められる。


~大図書館所蔵『災厄大全』から引用~




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