番外編 偶然、聞こえたこと


 産毛が震えるようなかすかな予兆のあとに音が耳に流れ込んできた。音のない世界から音のあふれる世界に放り出されると、思考が馴染むまでしばらくかかる。


「レオ、ご飯よ」


 目をつむってじっとしている後ろから、掛け声とともにスープの入った木の器が目の前におかれる。顔を上げて、焦点を合わせるために目をしばたくとスージーが私を見て笑った。


「驚かせちゃった? ごめんね。ふふふ、キョトンとして子供みたい。可愛いわねぇ、私の旦那さまは。うふふ。あー、なんて幸せ。こんな可愛い人と結婚できるなんて。可愛いカワイイ」


 そう言って私の鼻を指で撫でた。いつもと違うもの言いに驚いて何も返答できない私に、楽しそうに続ける。


「私の旦那さまがこんなに可愛いって、みんなに自慢してまわりたいけどね、恥ずかしいから。ユッタならおかまいなしに自慢してくるけど、私は無理。それに独り占めもいいわよね。可愛いレオは私だけが知ってるの、ふふふ」


 向かいに座り、食事の挨拶をするために手を合わせた。慌てて私も手を合わせる。


「食事を与えてくださり感謝します。神とレオに。さあ食べましょう。レオのおかげで毎日しっかりご飯たべられるから、ちょっと肉がついたのよ。もう少し付いてもいいけど、付き過ぎたらレオが困るわよね。ただでさえ体が大きいのに、下になったレオがつぶれちゃう。でもおっぱいがちょっと大きくなったのは嬉しいかな。気づいてるかしら。レオも嬉しいといいんだけど」


 体に柔らかさが増して喜んでいたことも、スージーの胸が少し大きくなった気がして嬉しく感じていたことも見透かされていたような気がして頭に血が昇った。恥ずかしさに頬が熱くなり俯くと、スージーが気付いたように声を小さくした。


「……? レオ? あら、あ……、え、ちょっと、聞こえてたの? ヤダ、ええ、あ」


 狼狽するスージーを盗み見たら、顔を赤くして固まっている。私たちは無言のまま赤い顔で見つめ合った。いささか気まずくなり、何か言わなくてはと思ったら先にスージーが動いた。


「もう、聞こえてるって言ってよ」

「……は、話の途中で」

「もー、どこから聞こえてたの?」


 食事を呼びかけられたときからと、言おうして思いとどまる。スージーが私のことを自慢したいほど可愛いと言っているのを初めて耳にした。聞いてしまったと言えばもう言わなくなってしまうかもしれない。こみ上げる喜びが胸をくすぐり、また聞きたいという欲張った気持ちで嘘を口にした。


「…………し、し、食事のあいさつから」

「本当に? 本当?」


 赤い顔してにらむスージーに胸がチクリとして言葉に詰まる。……こんなことで嘘をついて信用を失いたくない。私の前でも言ってほしいと言えばいいだけのことなのだから。

 つばを飲み込んで、おそるおそる本当のことを口にした。


「ほ、ほ、本当は、食事の呼びかけから」

「ええ! そんな前から! もう、バカ! 早く言ってよ」

「お、驚いて、口をはさめなかった」

「う……まあ、私もずっと喋ってたし、もう。……恥ずかしい」


 赤い顔をしてブツブツいうスージーは可愛い。私も自慢したい。こんな可愛らしい人が私の妻で幸せだと。


「可愛い。スー、スーは可愛い。じ、自慢の妻で幸せだ」


 スージーにそう言われて嬉しかったから自分もと思い口にしたが、ものすごく恥ずかしい。スージーの顔を見ていられず俯いて顔を覆った。


「……ちょっと、そんな恥ずかしがられたら、私のほうが恥ずかしいじゃない、もう。……ありがとう」

「……ああ」


 そのあとも恥ずかしさは去らず、俯いたまま静かに食事をした。


 少し気まずいまま食事をすませて片づけも終える。仕事場から持って帰った本を読もうかと、机に戻ろうとした私の背中をスージーに抱きしめられた。


「お肉付いたの気付いてた?」

「ああ。可愛い」

「……ホント?」

「本当。スー、は可愛い」


 スージーに向き直って抱きしめる。あなたが食事を十分にとれるのが嬉しい。あなたが幸せで嬉しい。あなたの柔らかさは私の喜びなんだ、スージー。


 額に口付け、なだらかな眉に、薄いまぶたに、そばかすの散る頬に、いくつも唇を落とした。ほんのり色付いた頬とうるんだ瞳から立ち昇る色気が私を誘う。ヒナゲシ色の唇を啄めば、細長い指が私のシャツのボタンを外しにかかった。私もスカートの紐とポケットの紐を解いて下げ、足を抜いてもらう。コルセットの紐をつかんでゆるめ始めたらスージーが小さく笑った。


「ふふ、もうすっかり慣れたわね」

「楽しい、からすぐ覚えた」


 胸を期待に膨らませながらあなたが脱ぐのを見るのも楽しいけど、私の手であなたを露わにするのはもっと楽しいんだ。私だけの特権だろう?

 脱がせ合った服を机にのせて掛布の中にもぐりこみ、スージーを抱き寄せた。唇を重ねて食めば、熱を持った体に火がついてすぐに夢中になってしまう。触れ合う体は柔らかく私に寄り添って、わき上がる喜びを与えてくれた。


「スー、可愛い」


 膨らみを手に包み、頬ずりをして口付ける。スージーが聞こえていないときの私にあんなことを言ってるなんて、嬉しくてたまらない。私も同じだ。スージーが可愛くて愛しくてしかたない。

 今は聞こえるのだからもっと聞かせてほしい。


「あ、あ、愛してる、スー」

「あいしてるわ、レオ」


 喜びに浮かれる私はスージーの声をもっと聞きたくて、指先でなぞってまわる。濡れる声がけぶる吐息が、体の底をくすぐり、私の心を震わせた。



 ***



「もうおしまい。また明日」


 両手で顔を挟まれ、見つめられる。もっと声を聞きたいのに止められてしまった。


「なぜ?」

「明日も仕事でしょ」

「あ、あと、一回だけ。お願い、スー、聞かせて」


 腰を抱いたまま唇を食んで甘えたら鼻をつままれた。


「甘えん坊ね」


 甘える私を楽しそうにからかうから嬉しくて笑いがこぼれる。


「スー」

「レオ」


 スージーの微笑む目は私を見て愛情を伝えてくれる。私からも伝わっているだろうか。あなたがどれだけ愛しいか。

 スージースージースージー、愛しい人、私の愛しい人。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨音に声を重ねて 三葉さけ @zounoiru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ