共棲

憂杞

共棲

 朝起きると、僕の部屋に丸い何かがいた。

 アパートの六畳ばかりの薄汚れたフローリングの中央で、サッカーボール大の真っ黒な球体が鎮座している。


 僕は隅に置いたベッドで寝たまま何だこれ? と眉を顰めたが、相手が生物である可能性に気付いてやめた。そいつはいきなり独楽こまのように回転したかと思うと、淡黄色の光、もとい二つの点目と逆アーチ型の口をこちらに見せてきた。

 それから僕の訝しげな表情を視認するなり、口の円弧をきゅっとすぼめて点を作り、ちょうど三点を結べば正三角形ができそうな配置を見せたのである。


 なんだこいつは。なんでこんな奴が自宅うちに? 

 SF映画を半端に嗜んできた経験が、頭にありとあらゆる妄想を浮かばせる。例えば異星での強制労働から地球へ逃げて来たのか? はたまた引きこもりの地球人を無作為に拉致するために遣わされたとか?

 どちらにしろ穏やかな話ではない。夢だという一番あり得そうな仮説はすっかり忘れていた。

 僕は恐る恐る上体を起こし、球体に問いかけてみる。


「お前、誰だ? どこから来た?」


 この不遜な行いにより反感を買って、自分はおろか世界をも消し飛ばされるかもしれない。けれど最悪そうなってもいいとさえ思っていた。

 反応はなかった。

 黄色の顔は相変わらず僕を見たままきょとんとしている。こちらの言葉が理解できないのか、喋ることができないのか。何にせよ危害を加えるつもりはないのだろうか。


 僕は黒い球体からの視線を一旦無視して、手元のスマホから検索エンジンを開く。

『生物 丸い 真っ黒 顔』

『球体 黒 部屋 突然』

 色々な語句を試してみたが、有力な情報は得られなかった。知らない深海魚や家電の画像がヒットするばかりで、目の前の何かとの関連性は一切見られない。どうやら、相手はまさしく未確認生物とのことらしい。


 僕は慎重に掛け布団を脱ぎ、片足ずつベッドから床へ降りた。警戒させないために一メートル離れた壁際でしゃがみ、球体をよく観察してみるためだ。

 すると二秒ほど視線を寄越したところで、また黄色い顔がこちらを向いた。僕はぎょっとして小さく声を漏らしたが、表情は変わらず三点のままだ。

 こちらの存在を認識していることは明らかだが、相手は部屋の中央からぴくりとも動こうとしない。あれだけ綺麗な球形状をしているなら、うっかり転がってしまってもおかしくないのに。


 僕は半歩ずつ球体に近付いてみることにした。極力床を揺らすことのないよう摺り足で、音も立てずにじりじりと黄色の顔に迫っていく。

 目と鼻の先まで来たところで、今度はその球体を持ち上げてみたくなった。色感からして鉄並みの重量があるかもしれないが、物は試しだ。もし軽々と持ち運べたなら、邪魔にならないクローゼットの中にでも置いておきたい。


 僕は両手を前へ伸ばして、止めた。

 さわれそうになかったからだ。

  られそうになる間際で、球体が表情を変えた。目にあたる二点はそれぞれ斜線となって八の字を作り、口の一点は横向きに伸びて波線となった。

 見るからに嫌がっている顔だ。これを見せられて触れと言う方が無理な話だろう。何かあるとしか思えない。


 仮に触ったとしたらどうなるか?

 直観する。確実にまずいことが起こると。

 そう例えば、爆発とか。

 事件だ。自宅に動かせない爆弾がある。


 反射的に固定電話を見やった。

 万が一本当にこれが爆弾なら、僕は普段通りの作業も生活もできそうにない。位置的にいずれうっかり触ってしまうことは避けられない。普通なら警察にでも通報すべきだろう。


 ただ――下手に他人を頼っていいのか?


 相手は未確認生物だ。きっとその道のプロでも、明確な対処法は分からない。

 近隣の住人にも必然的に知らせる羽目になるだろうが、分からないものを「爆発するかも」と言って回ったら、余計な混乱を広げてしまうだけじゃないのか。


 考えれば考えるほど頭が冷えてきた。

 僕は球体へ視線を戻す。現状を受け入れることにしたのだ。爆発させてしまったならその時はその時。仕方のないことだ。


 こうして僕は、得体の知れないものと過ごす日々を送るのだった。




 あれから三日後。

 僕はアパートの一室から出ないまま、内職で浮いた食費で食い繋ぐ生活を続けている。

 手取りの少なさから暮らしが長続きしないことは分かっていた。それでも正社員への再就職に踏み切れないのは、ひとえに人との関わりを避けたいからに他ならない。


 マル――丸いからマルと名付けた――は、今も部屋の中央に座している。両目は円らな点で、口は円弧形のにっこりスマイル。これがデフォルトの表情らしい。


 普段同じ部屋で機材の組み立てをする僕は、作業スペースを狭めざるを得ない状況に苛立っていた。誤ってマルに触らないためとはいえ、出来高制の仕事で作業効率が落ちるのはどうしても痛い。

 僕が作業をしている間、マルはいつも正三角の三点をこちらへ向けて傍観する。その視線が余計に集中力を削いできて――


 堪らず手を上げてしまった。

 自分でも初めて聞くような大声で吼えて、球体の天辺を拳で殴った。

 もうどうなってもいいと思った。二度と先行きに不安を感じずに済むのなら。


 結論から言うと、爆発なんてしなかった。


 マルは八の字と波線の嫌がる顔をして、黙って拳を受け止めている。

 爆弾なんて誇大妄想に過ぎなかった。そう気付いた途端、自分の身勝手さを痛切に自覚する。

 しばらくしてお隣さんからも苦情が来て、僕は罪悪感に震えることしかできなかった。


「ごめんな、マル」


 一言零しつつ、僕は殴った箇所を撫でた。金属ほどの硬質さがなかったからか、何となしに温もりを感じる。あの時どんな表情を返されただろうか。


 以来、マルを触ろうとして嫌がられることはなくなった。




 さらに三日後。

 僕はマルがいる生活に少しずつ慣れてきていた。無害とはいえ作業中マルにぶつからないよう気を配りつつも、徐々に普段通りのペースを取り戻しつつある。

 ちなみにまたマルを動かしてみようと一度は奮闘したが、持ち上げたところで手応えがなさすぎたので諦めた。あれから表情に出さなくなったとはいえ、内心で嫌がられていると思うと粘るのは気が引ける。


 その日は会社へ行かなければならなかった。既に組み立てた機械の納品と、次に請け負う組み立て用の機材を受け取るためだ。結局外へ出るんじゃないかと初めは不平を垂れたが、少しの頻度なので今は我慢している。

 部屋を出ようとしたところで、視線に気付き振り返った。また黄色い三点のきょとん顔がこちらを見ている。思えばマルを部屋に残して行くのは今日が初めてだ。


「ちょっと行ってくるだけだから、すぐ戻るよ」


 なんとなく無愛想に声をかけ、遅れて「んなこと誰も訊いてないよな」と自己ツッコミを入れる。

 乾いた笑いを漏らしながら荷物を整え、去り際に改めてマルを見た。


 マルは笑っていた。


 両方の点目をアーチに変え、円弧の両端を線でまっすぐ結んで、満面の笑みを浮かべている。

 僕は心臓を掴まれたかのようにどきりとした。


 マルが言葉らしきものを発したことは一度もない。なのに僕がコミュニケーションを取れていると感じるのは、全て黄色い光による簡易的な表情だけの影響だった。

 相手が人間か人造物である保証はない。あれはただランダムに記号を映しているだけの可能性も、まだ皆無とは言えないんじゃないのか。


 それでも――

 僕が今のアパートに住めなくなって、ひとり取り残されるマルを想像する。新たな住人にかつての僕のような、無慈悲な疑いと嫌悪を向けられるマルを想像する。


 動かない置き物を相手にこうも頭を悩ませることは、果たして滑稽だろうか。




 その後の僕が新たな仕事探しに踏み切るまで、たっぷりと二週間を要した。


 たとえマルとの二人暮らしが思い込みに過ぎないとしても、僕は以前より今の暮らしの方が好きだから。

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共棲 憂杞 @MgAiYK

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