永遠のマークII

すえもり

永遠のマークII

 朝九時、朝食を取った私は家の外に出ると、愛車にホースで水をかけ、柔らかい布で丁寧に汚れと水気を拭き取った。朝日を受けた車体は、私の目には新車の頃とほとんど変わりなく輝いているように見える。

 ドアを開け、かつて妻と旅行した先で買った木彫りのキツネのキーホルダーがついたキーを差し込み、軽く右に捻る。低い唸り声を上げながらエンジンがかかる。少しだけふかして、エンジンが温まるのを待つ。

 シートベルトを締め、ラジオのスイッチを入れ、チューナーをいつものFMに合わせると、懐かしい八十年代のシティポップが流れ出した。思わず口元が緩む。私がこの車を買って乗り回していた頃の音楽だ。

 のドライブのBGMにはちょうどいい。

 ゆっくりとアクセルを踏み、閑静な住宅街を出て、まずは子ども達の通っていた小学校がある方角へと向かう。しばらく行くとバス通りに出る十字路で信号に捕まった。窓のハンドルを回して三分の一ほど開けると、まだ冷たい三月の風が吹き込んでくる。ジャケットのジッパーを上げ、信号が青になると同時にアクセルを踏んだ。


 正月、帰省した娘家族を駅まで送った時、助手席に座っていた娘から「お父さん、危ない」と言われた。横断歩道のないところを渡っていた歩行者に気付いていなかったのだ。娘は言いにくそうにしつつも、もし今のが見えていなかったのなら危ないと思うから、免許センターで認知機能検査を受けてみてはどうかと言った。

 十年前、六十五歳で退職するまでの半世紀近くタクシードライバーを務めていた私にとって、その言葉は衝撃だった。しかし、娘の真剣な顔を見て、一度受けてみようと思い立った。

 試験の結果は合格だったものの、その後の高齢者講習を受け、ここで潔くやめるべきかもしれないと、ぼんやり考えた。

 もし事故を起こしてしまえば、十年後の孫の成人式を見届けられなくなってしまう。昨年、病で先立った妻との約束を破ってしまうことになる。

 だが、まだハンドルを握り続けたいという思いも強かった。私にとって、運転ができなくなることは死刑宣告にも等しいものだった。

 決断に至ったのは、この春、愛車のマークツーが、ついに排気規制の対象となったからだった。


 正式名は三十系コロナ・マークツー、今どきお目にかかる機会のほとんどない、古き良き日本のクラシックカー。

 妻と出会う少し前、仕事で横を通り掛かったディーラーで展示されているのを見た時、深い緑フォレストグリーン色の洗練された佇まいに一目惚れした。

 やや丸みを帯びた優雅なフォルム、『ブタ目』と呼ばれた、どこか親しみの持てる丸いヘッドライト。内装はカフェオレ色とでも言おうか、温かみのある明るいブラウンを基調とした統一感のあるカラー。西欧文化への憧れを詰め込んだ、高級嗜好のモデルだった。

 人より少し長かった独身時代の貯金をはたいて手に入れた。

 そして、客として乗せたことが縁となり付き合い始めた妻を乗せ、思いつく限りの娯楽施設や観光地に繰り出した。もちろん妻の実家まで何度も往復した。

 プロポーズするために夜景の綺麗な公園へと連れて行った。結婚してから、妻が産気づいた時に病院まで送ったのも、娘と息子を習い事や塾へ送り迎えしたのも、二人が地方の大学に通うため下宿する際に荷物を運んだのも、妻の病院通いを支えたのも、このマークツーだった。


 子どもが自立してからは、車検に出すと、毎度担当者から、こんなに長く乗っていただけて嬉しい、走れる限りは大事にしてやってほしいと言われた。その時はまだまだいけますよと笑っていたものの、ここ数年はたびたび不調を起こしていて、いつまで保つだろうかと不安に思うようになっていた。

 まだ大丈夫。私かマークツーが動けなくなるまでは乗っていたい。そう思っていた。


 小学校へ向かう道から一つ外れ、坂を下っていくと隣の県に繋がる道路に出る。妻の実家に通った際に通った道だ。はじめ殺風景な風景は、次第に緑に囲まれ、山越えの道となる。途中、山頂の近くに妻と親父とお袋が眠る霊園がある。そこへ立ち寄って線香を上げて軽く休憩を取ることにした。

 ここから半刻ほど走れば、最終目的地である、妻の実家近くの、例の夜景が美しい公園に着く。飲み慣れた缶コーヒーで一服し再出発したが、ここで面倒事に出くわした。

 前に入ってきた車が初心者マーク付きで、スピードが遅いのだ。

 私は万年ゴールド免許の優良ドライバーであり、自他ともに認める温厚な性格だ。しかし、時速四十キロ強で延々走られては、さすがに疲れてしまう。追い越そうかと思ったが、蛇行する狭い山道では難しい。

 私のドライブは今日が最後だというのに。影から推測するに、運転手は若い女性で、隣に誰か乗せているようだった。馬力のない小型車では速度が出ないのは仕方ないが、それにしても免許取り立てでこんな山道に来ようと思うものか。


 その車は、なんと私の目的地である公園の駐車場に入った。私が素早く駐車している間にも、降りた助手の指示を受けつつも手間取っている。なるほど、車が少ない駐車場で練習したかったらしい。私は車を降りて鍵をかけ、真昼の平野を見下ろせる場所に移動した。

 本当は夜景を見たかったのだが、夕方から夜の運転は危険なので断念した。妻にプロポーズしたベンチはなくなり、真新しい緑のペンキが塗られたものに代替わりしていた。

 美登里みどり、一緒に金婚式を迎えられなくて残念だったが、ひとまわり年上の私によく我慢して付いてきてくれた。私もついにマークツーと別れる日が来たよ。一緒にドライブした頃のことは、昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 言いたいことは沢山あったが、それは向こうに行ってからでいい。

 心の中でそう呟いて、かつて渡した物と同じ、用意していた薔薇の花束をベンチに置いた。

 幹線道路を行き来する無数の車が、陽光を反射してきらめいている。もう自分は、あの中に入ることができなくなる。

 時間よ、私から愛車を奪わないでくれ。アイデンティティを失ったら、私は私でなくなってしまう。一体何年、何時間、あのハンドルを握ってきたと思ってるんだ。

 だが、別れの時はもう迫っていた。来た道を帰れば終わり。明日、私は免許証を返納する。

 湿っぽくなるのは歳をとったからか。私は景色に背を向け、サングラスをかけた。


 車に戻ると、先ほどの初心者ドライバーが、助手席に座っていたらしい青年と写真を撮っていた。カップルだろうか。私が車に乗り込もうとすると、青年のほうが声を掛けてきた。

「とてもいい車ですね。写真を撮らせてもらいたいんですが、少しいいですか?」

 私は驚いて、間の抜けた声で「ああ、どうぞ」と言った。

 彼はプロが使うようなゴツいカメラで、マークツーをあらゆる角度から撮影した。

「良かったら運転手さんも一緒に」

「私?」

「はい、実はこれでもカメラマンでして。いい絵が撮れそうな気がするんです」

 遠慮したかったが、彼は爽やかな笑顔で、後でデータを送るから是非と言う。まあ、プロに記念に撮ってもらえるなら悪くない。サングラスを上げ、愛車にもたれかかる格好をすると、彼は嬉しそうにシャッターを切った。

「やっぱり、この世代の方のポージングは何だか好きなんですよね。決まるんですよ」

「そ、そうかな」

 彼は気が済むまで、あらゆる角度から私とマークツーを収め続けた。そして、画像を早速チェックし始め、どれがいいかと聞いてくる。

「彼女さんを待たせてていいのかい?」

 ドライバーの女性は、車の脇でスマホをいじって時間潰ししている。

「ああ、妹ですよ。免許取り立てでして、練習に付き合ってるんです」

「そうだったのか。いいお兄さんだね」

「あいつ、春から車通勤するんですよ。レーシングゲームでブレーキすら踏まなかったやつだから、心配で仕方なくて。後ろを走っておられた時、遅くてご迷惑をおかけしました」

「いや、それはいいさ。練習あるのみだね」

「はい」

 そうだ、私が免許を返納するのは、私とマークツーが殺人鬼にならないようにするためだ。先の短い私が、彼らのような前途ある若者の未来を奪わないように。

 私は写真を一枚選び、メールアドレスを教えた。そして、これが最後のドライブであることを話し、出会えて幸運だったと伝えた。彼は驚き、それから照れ臭そうに笑うと、寂しそうな表情を浮かべた。

「この車は廃車になってしまうんですね」

「法律だから仕方ない。そうでなくともオンボロだ」

「そうですか……あの、もしも、走れなくなっても残り続ける道があるとしたら、どうですか?」

「どういうことだ?」

「僕の仕事場の一つに知人の結婚式場がありまして。そこに置いてみませんか。レトロカーで写真を撮りたいというお客様は案外いらっしゃって、親戚から借りてくる方もいるくらいなんですよ」

 雨風に晒されない屋内に置きますので、と彼は付け足した。私は彼の目が真っ直ぐで、マークツーを心から良いと思ってくれていることを感じ取った。

「そうだな。そんな道があるとは思っていなかったよ」

「いつでも遊びに来ていただいて構いません。ご家族と写真を撮らせていただけたら嬉しいです」

 その言葉で、私は頷いた。

「孫の成人式を見るまで生きるのが、妻との約束なんだ。その日が来たら、孫とマークツーを一緒に撮ってやってほしい」

 青年の目はキラリと輝いた。

「是非とも」


 帰り道、安全運転を心がけつつも心は羽根のように軽くなっていた。

 ドライブを終えて家に着くと、写真家の青年から送られてきたのは、写真と、いつの間に撮ったのか、公園の駐車場から走り出すマークツーの動画だった。

 マークツーが結婚式場に移ってからも、彼は写真を撮るたび、新郎新婦の声を伝えてくれるし、たまに様子を見に行くと、許可を得た写真を見せてくれる。

 私は走るのをやめ、自分の足で歩いていく。けれども私のマークツーは、これからも人を乗せ、写真の中で永遠に走り続けてくれている。

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