僕のあたらしい世界

草群 鶏

僕のあたらしい世界

「俺、今年の全員リレーは勝ちたいんだよ」

 大真面目にそう訴える彼は、足が速いことで有名なクラスメイトの多城くんだ。

「だから協力してくんないかな」

「いや、ぼ、僕は」

 中三の春。毎年憂鬱な体力テストを終えて、僕は疲れ果てていた。ただでさえ運動は苦手だというのに、立て続けに何種目もやらされてもうへとへとだ。そのうえ、クラスメイトには謎の圧力をかけられている。

 なんなんだ、もう。

「とりあえず、足は引っ張らないようにするから」

「いや、そうじゃないんだよな、そうじゃなくて」

 小太りの僕と比べて、多城くんはすらっとして顔立ちも引き締まっている。だから、ちょっと苛立つだけで迫力があるのだ。怖いからほんとにやめてほしい。

「俺が好きなことを、いやいややってるヤツがいるとテンション下がんだよな」

「それは多城くんの勝手じゃない?!」

「そうだよ、そうだけどさ、でも森野だって今のままじゃ肩身狭いだろ。50メートルめっちゃ時間かかってたじゃん」

 ぐっ、こいつ、はっきり言いやがって。

「俺がもうちょい動けるようにしてやるから。な、頼むよモリゾー」

 ずんぐりしたまるいキャラクターからつけられた僕のあだ名。このタイミングで繰り出されたことにうっすらカチンときたが、本人にまるで悪気がないのでため息しか出ない。

「わかったよ、で、何したらいいの」

「いいの?」

「僕だって速くなれるもんならなりたいし」

 それに、体育祭のヒーローに頭を下げられるなんて、悪い気はしないし。

 僕の気が変わらないうちにと思ったのか、多城くんは素早く予定を立てると、わかりやすく弾む足取りで駆けて行った。

 なにがそんなに楽しいんだろう。

 ほんとうに、へんな人だ。


 練習は、さっそく翌日の昼休みから始まった。

 三十分しかない昼休みに一体どれだけ走らされるんだろうと思ったら、その日はジョギングと準備運動だけで終わってしまった。

「え、これだけ?」

「これだけって、これ以上やったらモリゾーけがするよ」

 動くのがへたな僕の身体は、校庭をゆっくり五周するだけでびっくりしている。がくがくする膝をストレッチで落ち着けて、仕上げに多城くんと背中合わせで引っ張り合う。

「まずは運動自体に慣れないと。速い動きはそのあと」

 うわあ、このひと本気だ。僕はかるく引いた。

 六月の体育祭まであとひと月あまり。彼はきっとすでに、そこまでの道筋を立てているんだろう。生まれてこのかたビリを走り続けた僕をどうにかしようというのだから、ちょっとした人体改造だ。

 ならば僕も応えねばなるまいと、他にできることがないか訊いた。

「そしたら、部活見学に来なよ」

「えっ」

 僕、陸上部には入らないよ、と言うと、多城くんは「ちがうちがう」と笑った。

「イメトレだよ、イメージトレーニング。本気で観察したら、けっこう違うから」

 そういうもんかな、とすでに多城くんの術中にはまりつつある僕は、学校帰りに陸上部にまぜてもらい、さらに大会まで観に行くことになってしまった。

 他の部員の人たちにどんな顔をされるか心配だったけど、逆に僕が心配されてしまった。曰く、「部長は陸上のことになるとただの変態」で、さしづめ僕は被害者なのだそうだ。

 もちろん、部長とは多城くんのことである。


「リズム感皆無だな」

「脚だけ動かしても進まないだろ」

「フツー走るときは踵はつかないんだよ」

「腕と脚がバラバラじゃねえか」

 多城くんの僕に対する評価はさんざんだったが、それは悪口ではなく分析だった。じゃあどうすればいいか、彼はその答えをちゃんと持っていて、僕ができるようになるまで付き合ってくれる。

 地面にはしごみたいなものを敷いてステップを踏んだり、前後に脚をひらいて腕振りだけしてみたり、低いハードルを連続で跳んでみたり、次から次から新しい道具が出てくるので疲れるけど楽しい。しばらくばきばきの筋肉痛に苦しんだけど、そのうちに力の入れどころや抜きどころがつかめるようになってきた。途中から陸上部のウォーミングアップについていけるようになって、それがとても嬉しかった。

 ついていける、っていう経験自体が、僕には初めてだったからだ。


 県大会は離れたところにある大きな運動公園で開催された。全く縁のない場所に、普段乗らない電車を乗り継いで行くのはちょっと楽しい。電車は好きなのだ。

 初めて足を踏み入れた陸上競技場はとにかく大きくて、それ以外に何もなかった。空がぽっかりひらけていて、外から切り離されている。場内にいる選手は予選を勝ち上がってきた人ばかり、まさしく選手で、僕みたいなのは一人もいない。まるで次元が違うから、うらやましいとも思わない。

 ただ、かっこいいなあ、と思った。

「あっ先輩、慧汰先輩そろそろ出てきますよ」

 陸上部の後輩たちがなにかと気にかけてくれて、僕は一人にならずにすんだ。それどころか、みんなこぞって解説してくれるので、そろそろ頭がパンクしそうだ。

 男子200メートル決勝。選ばれし八人が競技場の反対側に現れた。その中に自分の知り合いがいるなんて、ちょっとすごい気がする。

『第七レーン、多城慧汰くん』

 名前が読み上げられると、なぜか僕まで緊張してきた。

 号砲が鳴って、スタートした選手が一斉にこっちに向かってきた。速い。カーブの内側に身体を傾けて、まるで車輪みたいだ。僕はどきどきしながら必死で声を張り上げる。

 結果は四位。しばらくして、悔しそうにスタンドに上がってきた彼を、僕は他の後輩たちと一緒に精一杯ねぎらった。


 学校中が体育祭の準備一色、うちの中学は変わった種目が多いから、みんなその練習に余念がない。いよいよ特訓も最終段階だ。

 いろんなステップを叩き込まれたから、無様によたついていたスキップもちゃんとできるようになった。手足がちゃんと連動すると、腕を振った反動で足が前に出る。「腕を振るときは肘を引け」ってさんざん言われたけど、こういうことかとやっとわかった。言われたことと感覚がちゃんとつながるのはちょっとした快感で、それは数学の問題を解くときに似ていた。

「いくぞ」

 横についている多城くんを手本にしながら一緒に走る。50メートルも、前ほど長く感じなくなった。

「すごい、それっぽくなったじゃん」

 ゴール地点で、同じく陸上部の高原さんが目を丸くしていた。

「俺が教えてんだから当たり前だろ」

「またあんたはそういうこと言う」

 まるで夫婦みたいなやりとりに、僕は息を切らせたまま楽しくて笑った。走って楽しいなんて、初めてかもしれない。

 体育祭は三日後に迫っていた。


 当日、出場種目の少ない僕は、係の仕事をしながらちょこちょこ体を動かした。

 疲れるからじっとしてほうがいいんじゃないかと思ってたけど、逆らしい。準備運動をするとしないとではその後のキツさが全然違うと、僕はすでに知っている。

 唯一得意な一輪車リレー(乗るほうじゃない、押すほうだ、畑で使うやつ)で一位になって勢いがつき、クラスメイトの応援にも力が入った。

 そしていよいよ体育祭のしめくくり、クラス対抗全員リレーがやってくる。

 五つあるクラスの人数は少しばらついていて、最も多い三十四人に合わせるから、僕のクラスは誰かが二回走らなければならない。その役目は当然、多城くんが担うことになっていた。しかもアンカーで、いっぺんに200メートル走る。その一個前が僕。

「お互い、責任重大だな」

 さらっとそんなことを言われて、ますます緊張してしまう。

 走順の奇数と偶数とに分かれて位置につき、いよいよリレーが始まる。

「位置について」

 ざわめきが少しおさまった。

「よーい」

 ドン、と号砲が鳴って、第一走者が一斉にスタートした。足が速いのは陸上部だけじゃない、サッカー部やバスケ部、体力づくりで走り込んでいるから吹奏楽部も意外と速かったりする。

 みんなと一緒に戦況に一喜一憂しながら、僕はちょっと感動していた。去年まで、正直他人事だったのだ。がっかりされるのは目に見えていたから、いかに気配を消してやりすごすかしか頭になかった。それがどうだろう、午前中から叫びどおしの僕の喉は、もうつぶれかかっている。

 抜きつ抜かれつ、いい勝負だ。うちのクラスはバトンパスがうまい。多城くんの剣幕に押されて全員練習させられたのだ。おかげで頭ひとつ抜けた。

 列はどんどん詰まっていって、順番待ちはとうとう僕だけになった。必死で追われてくる女子とぶつからないよう、僕は早めに助走をとる。

「はい!」

 手のひらにバトンが押し込まれて、あとは無我夢中だ。遅いのは知っている、バトンをもらってけっこうすぐ抜かれてしまった。でも、おかげで前を追いかけられる。

 100メートルはやっぱり長かった。半分を過ぎたところで、頭がぐるぐるしはじめた。肘は引く。無闇に前に出ようとしない。のけぞらない。教えてもらったことを自分に言い聞かせながら必死であがく。僕の番で4位に落ちてしまった。でもそれほど大きい差じゃない。

 それに、次は多城くんの200メートルだ。

 僕を待つ多城くんの顔は笑っていた。鬼かと思ったが違う、すごく嬉しそうだ。バトンを渡した瞬間、ポンポンと肩を叩かれる。

「最高」

 それだけ言って、矢のように飛び出していった。やり切ってへろへろの僕は、へたりこみながらつぶやく。

「クソ、かっこいい……」

 多城くんの走りは鮮やかだった。すぐに一人抜き返して、100メートルすぎても速さは衰えず、じりじり追い上げてとうとう先頭に食らいつく。

 ゴール寸前、彼は鬼の形相でトップの座を奪い返した。

 うちのクラスだけじゃない、見ていた全員が歓声で沸いた。クラスメイトが駆け寄るなか、多城くんは息を切らせながらまっすぐこっちに向かってくる。

 一体何を言われるかと思ったら、ただ一言。

「な、走るの楽しいだろ!」

 そう言って屈託なく笑う。

 結局それかあ、と僕は脱力しつつうなずいて、大好きになった友人と肩を組んだ。

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