走る理由

ナナシマイ

第1話

「母さん! 運動会!」

「分かってる。来週でしょう? 水曜日」

「うん! 絶対来てね?」


 小学校から帰って来るなり、パソコンに向かっていた私の背中にどーんとぶつかって、そう確認してきた息子。念を押すように顔を覗き込んでくるので、うんうんと何度も頷く。

 それを見て満足気に笑うと、背負っていたランドセルをソファに投げ置いてそのまま玄関へ向かおうとする。


「ちょっと、宿題は?」


 私がむっとして呼び止めると、息子は「何それ?」とでも言うかのような様子で振り向いた。それから、思い出したかのように手を打ち、ニッコリと笑う。


「うん、後でね」

「えっ?」


 引き止める前に見事なスタートダッシュで廊下を走っていく息子。流石に脚が速いだけある。靴を軽く引っ掛けただけで玄関の扉を開け、あっという間に外へ出ていってしまった。


 ……また今日もやられた。


 一人、リビングで溜め息をつく。学校で運動会の練習が始まってから、ずっとこの調子なのだ。帰って来て、私が運動会のことを覚えているかを確認して、走る練習をしに行く。宿題は勿論後回し、いや、本当に忘れる日もある。毎日あるのに。


 そして一番不可解なのは、この一連の流れを行うのは体育の授業がある日だけということだ。

 せめて毎日運動出来るようにと、体育の授業がない日にやるのなら良いが、息子がそれに思い当たる日はきっと来ないだろう。……しかし今日こそは、その辺りをはっきりさせてみせようじゃないか。


 別に私だって、息子がやりたいことを何でもかんでも否定したい訳ではない。寧ろ、好きなことがあるなら温かく見守っていたいし、応援だってするつもりだ。


 そう、彼は走る事が特別好きという訳ではない。


 さて、何て話を切り出そうか? そんなことを考えながら、私はパソコンでの作業を終えて夕飯を作り始めた。




「え、何で走る練習をするのかって?」

「そう。走るの好きじゃないでしょ? 運動会があるからっていうのは分かるけど、帰ってからも走るのは不思議だなーって」


 するとどうだろう。息子は、何を当たり前のことを、と言うかのように首を傾げた。それからこう言った。


「だってほら。オレ、モテたいから」


 なっ……。この子、堂々とそんなことを……! 旦那も隣で笑ってるし。


 いや、うん。確かに息子はモテる。

 顔はまぁ、私に似て普通だけど、旦那譲りの運動神経の良さと、誰にでも同じ態度を貫く姿勢は、親としての贔屓目なしにも好感が持てる。


 実際に、女の子からの手紙を缶々に入れて保管していることも知っているし、運動会で息子が走れば女の子の黄色い声が飛び交うし、バレンタインなんて他の学年の子からも貰ってくるのだ。いつも、私はそれを微笑ましい気持ちで見ていた。

 だがそれが、自らの俊足を利用した息子の狙い通りなのかもしれないと考えると、親としては複雑な心境である。


「あのね。モテたいって言うけど、脚が速くてモテるのは小学生までだよ? その後はだんだん、頭が良いとか、優しいとか、誰かにとっての特別なことが大事になってくるの」


 それから、お金とか。


 ……まぁそんなことを小学4年生に教えても仕方がないし、今伝えたいのはそういうことではない。走ることを続けるならそれでも良いし、他のことでも良い。

 モテるのは「何かを頑張った」ことによる副産物であって、それ自体を目的にはしてほしくない……。そう思うのは、親のエゴだろうか。


「あれ。でもさ、母さんはオレくらいの頃から父さんのことが好きだったんだよね? 父さん、脚遅かったの?」

「なっ……。そ、それは違うけど。でも、この人は頭も良いし優しいじゃない!」

「知ってるよ。でもそれって、今考えなくても良いことだよね。だって母さん、そのことに気付いたのは高校生になってからなんでしょ?」


 旦那ぁあああ! あなたは何てことを息子に教えているんだ!


 私は確実に赤くなっている顔を両手で覆った。隣で旦那がクスクスと笑っているので、指の隙間から睨む。


「うーん、それなら母さんみたいな子を選べば良いのか。やっぱりホナミ辺りかなぁ」


 何その選びたい放題っぽい発言。息子、恐るべし!


「おお。これが俗に言う、血は争えないってやつだな」

「何それ、父さん」

「……俺とダイチは、流石親子だな、似ているなってことだよ」


 ……え?


 息子の思わぬ育ちっぷりと、今更知った旦那の秘密(?)に、私はぽかんと開いた口を閉じることが出来なかった。

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