running end

延暦寺

走るということ

 外が薄暗くなるのを見計らって家を出た。夏といえどももう終わりかけ、夕暮れはもうすっかり秋の様相である。空気はぬめりと冷たかった。


 家に閉じこもったままではいよいよ気が狂いそうだったから、いつものように外で走ろうと思った。小さい頃からそうやって、辛いことや悲しいことを乗り越えてきた。よく私は能天気だと言われるが、多分そんなことはない。感情の逃し方を知っているだけである。


 タン、タン、タン、タン


 地面を蹴ると響くリズム。いつもは快いそれが、今日はやけに気持ち悪い。吐きそうだ。でも止まってしまったら本当に吐いてしまいそうだから、そのまま、ただ前へ進んだ。顔に風が突き刺さった。涙の痕がナイフで刺されたかのようだった。


 ******


 一目惚れだったんだと思う。走る姿が本当に綺麗だった。水が流れていくかのような、自然で力の抜けたフォームは一種の完成形で、本当に同級生だとは思えなかった。気が付けば目で追っていて、彼は相当なイケメンで、来る日も来る日も彼のことを考えていて、それはもう高校生にして遅咲きの初恋だった。

 その思いは結局どうしようもないまま一年が過ぎたが、先輩たちが引退したことを受け、私は女子陸上部の部長となった。彼は男子陸上部の部長となった。接点が生まれた。少しずつ話すようになって、一緒に帰るようになったりして、最後は私が告白した。付き合い始めてからは部活休みの日にはデートに行ったりして。キス、なんかもして。


 あの頃の私は舞い上がりすぎていた。見えていることから逃げた。見えないふりはとても楽だった。


 ******


 人は抗うために走るんだと思う。死に抗うために、走る。己に抗うために、走る。運命に抗うために、走る。地面を蹴って、ただがむしゃらに足を前へ、前へと送る。その過程に、力が宿らない訳がない。


 でも私は。今私が走っているのは、前に進むためじゃない。後ろから目を逸らすためだ。後ろを見なくていい口実のためだけに走っていた。だから吐きそうなのだ。罪悪感が背中にずしりと乗っかっていた。私が何よりも好きなはずのことを、自分で汚していた。


 タン、タン、タン、タン


 本当は知ってたんだ。


 ちょっとずつすれ違っていく会話、上の空な態度、oftenがsometimesになったライン、空白の日曜日。


 どれを取ったって、彼が私に気がないことなんて明白だった。遅かれ早かれ露呈する事実だった。私は彼が浮気をしていたことを知った。泣いて問い詰めた。


“別に最初から本気で付き合う気なんてなかった”

“お前そこそこ可愛いし、キープしとかない理由もなかった”

“ま、ワンチャンあればいいかなって”


 彼は欠片も動揺しなかった。いつもの笑みを貼り付けているだけだった。そのことが一番私を傷つけた。安っぽいメロドラマみたいに、簡単に私は切り捨てられた。


 タッ、タン、タッ、タン


 ほんのり息が切れてきた。体全体がだるくなってきている。そろそろ帰ろうかな、と思ったところで、何か冷たいものが頬を触れた。ぽつぽつぽつ。夕立だ。


 息も付けぬうちに土砂降りになった。疲れた体に鞭打って走った。無我夢中で走った。


 そういえば、告白した時も夕立が降った。走って走って屋根のあるバス停に逃げ込んだ。困ったねえなんて笑う彼があんまりカッコいいものだから、好きだよって。あの笑顔は本物だったのかな、偽物だったのかな。


 未練が残りまくりで笑ってしまった。好きだったんだ。偽物であっても、優しかったしカッコよかったし。なにより走る姿が綺麗だった。


 その想いからは目を背けちゃダメだったんだ。


 家が見えるころにはすっかり雨雲は通り過ぎて行った。こういう時は虹が見えるものだけど、残念なことに太陽はすっかり沈んでしまっていた。

 代わりに一番星を見つけた。ベガ。織姫星。牽牛星はまだ、見えなくて。


 タッ、タン、タッ、タン


 吐き気は収まっていた。雨に濡れた体は表面から体温が奪われているはずで、でも不思議と温かった。


 家まであと100m。もう一度彼のことを思い浮かべて、最後の大会で見返してやらあと心に決めて、ラストスパート、大きく地面を踏みしめて、蹴った。

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