残暑の入江、本当の午後

天野橋立

残暑の入り江、本当の午後

 祖母が借してくれたのは、見覚えのある、年季の入った自転車だった。メッキ部分があちこち赤錆びて、元の銀色は残り少ない。祖母本人は、もう何か月も乗っていないようだ。

 ぺたんこになっていたタイヤの空気を足して、ブレーキがしっかりかかることをちゃんと確認してから、僕は慎重に走り出した。もちろん変速機などない。

 九月の一日。都会で暮らし始めた僕は、ようやくこの時期になって、田舎へと帰ってくることができた。隣県に住む父親たちとは入れ違いで、僕一人だけになったが、一度もここへ帰らない夏などというものは考えられなかった。

 県道の舗装路を離れて脇道に入る。途端に、すり減った細いタイヤが硬い土の上を覆う砂に滑って、濃緑の車体は姿勢を崩しかけた。ハンドルを抑え込み、上半身を傾けて転倒を防ぐ。汗だか、冷や汗だかがTシャツの下を流れた。

 未舗装のこの脇道なら、容赦ない陽射しを濃い木立ちが遮ってくれるし、県道を走ってくる大きなトラックの心配もない。ただ、どうにも走りにくい。こんな程度のことでも、二兎を追うというのは難しかった。

 普段は電動自転車だから、アシストなしに坂道を登るのも、太ももにかかる負担がきつい。素足にサンダルでは、踏ん張りも効かない。しかしこの登りは、長くは続かないはずだった。細々と起伏の多い、等高線が地図上でぐにゃぐにゃとしている地形とはいえ、高い山があるわけではない。

 峠というほどでもない、ちょっとしたピーク。なぜかそこだけ木立ちが途切れて、ほんの一瞬だけ真上から照り付けた陽光が、白く眼を眩ませた。すぐに戻った木陰の下が、まるでトンネルの暗闇のようだった。

 緩やかな下り坂が延々続いた。ざらざらとした道の感触が車体に伝わり、スピードを出し過ぎると、またスリップして大転倒しかねないから、キイキイとうるさいブレーキをかけ続ける。

 実在の風景、本物の空気。その瞬間、僕はその真っただ中にいた。耳元を風が切り、両側の木々が後方へ飛び去って行く。道にどこまでも点々と落ちた木漏れ日を、頼りないタイヤが次々と踏んでいく。

 生活、仕事。圧縮機のような毎朝の電車、大して行きたくもない飲み会。そして帰り道、ビルの間に見上げた夜空に感じる解放感。ずっと遠くにある、白い月。

 あの時に感じる自由が、ニセモノだとは言わない。あのひとときが無ければ、とうてい暮らしてはいけない。

 しかし、今僕をこうして包む、なにもかも、この濃さはどうだろう。光も影も、青も緑も。

 だから必ず、帰ってこなければならないのだ。まだ夏のうちに。現実の中心にあるものをこうして感じるために。


 下り坂の終わり、木立ちが左右に開けると、正面に青い水面が広がった。周囲を緑に囲まれて、まるで高原の湖のようでもあったが、そこは入江で、つまりは海の一部だった。いわゆる、リアス式。この辺りでは陸地と海が、お互い複雑に入り込んでいて、山林と浜辺の風景がすぐお隣同士に並ぶのだ。

 小さな砂浜に自転車を乗り入れて、砂にめり込ませるようにスタンドを立てた。目的地到着、お疲れさまでした。

 真夏のほんの短い間だけ、ここは海水浴場として使われる。更衣室代わりの簡単な小屋と、ただ水道水が噴き出るだけのシャワー。この水のとんでもなく冷たいことを、いつかの夏を懐かしく思い出す。水道管の銀色は、こんなに鈍かっただろうか?

 しかし今はもちろん、トタン屋根の小屋には南京錠がかかっていて、シャワーの水栓にはレバーがなかった。

 砂浜には先客がいて、幼い兄弟が波打ち際を嬉しそうに走り回っていた。麦わら帽をかぶった若い母親が、その様子を見守っている。このささやかなビーチを端から端まで走るのは、幼稚園児でもさほど難しくはない。

 僕もまた、波打ち際のぎりぎりまで近づいてみる。湾と湾が連なった、そのまた奥の入江だから、波といってもごくごく穏やかなものだったが、それでもたまに勢いのついた水が泡立ちながら打ち寄せて、サンダルを濡らした。


 目を閉じて、砂の上に寝転んで、まぶたの向こうの太陽を感じながら、静かな波音を聴いた。背中の砂は暖かかったが、灼け切って耐えがたく感じるだろう、真夏の熱さはもうなかった。

 子供たちのはしゃぐ声が、すぐそばに聞こえる。あんな歳の頃から、毎年来ているこの海。

 実在の風景、本物の空気。ビルの上の白い月を、僕は再び思い浮かべた。鳴り続ける電話、駅員の叫ぶ声。今はみんな遠い。四十一時間の後、また戻らなければならない世界なのだとしても。

 帰ってきて良かった。九月一日は、もう夏ではないらしい。でも、どうやらぎりぎりで間に合ったようだった。

(了)

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残暑の入江、本当の午後 天野橋立 @hashidateamano

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