敬慕の人

緋糸 椎

敬慕の人

幕坂まくざかさん!」

 幕坂 漠まくざかばくさんは炎天下、陽炎の立ち昇るコンクリートの上で健気に宣材を配布していた。

「……斉藤さん?」

 幕坂さんはゆっくりと振り向いて、まるで覇気のない顔をこちらに向ける。幕坂 漠まくざかばくという、某世界的実業家を彷彿させる珍しい名前の持ち主だが、実情は出世コースから外れた落ちこぼれ社員だ。まもなく五十路の大台に乗るというのに、未だ平社員である。もっとも派遣社員の俺には、正社員というだけで憧れのポストだが。

「幕坂さん、お弁当買って来ましたよ! 休憩しましょう!」

「ありがとう。でも、あまり腹がすいていないのですよ。この炎天下じゃ足が早いでしょうから、ご迷惑でなければ私の分も召し上がって下さい」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 今日は会社の新商品発表イベントで、ショッピングモールのイベント広場に来ている。自粛が叫ばれるこのご時世でこんなことをしているのは、アメリカ帰りのパリピ社長が「こんな時だからこそ祭りが必要だ!」などとほざいてるせいだ。とはいえ、駆り出されてるのは俺や幕坂さんのような、あまり重要視されていない人間ばかりだ。

 社内で幕坂さんと積極的に話そうという者はいない。みなせいぜい「おはようございます」「お先に失礼します」「おつかれさまです」という挨拶を交わすくらいだ。

 しかし俺はそんな幕坂さんに、どこか魅力を感じていた。世間の価値観などまるで気にかけず、孤高に生きていくその姿が粋に思えたのだ。


 イベントの途中で小雨がポツポツ降って来た。

「おや? 天気予報では〝晴れ時々曇り〟だった筈ですけどね」

「雲行きが怪しいですね。中止にするべきか上に判断を仰ぎましょう」

 幕坂さんは携帯を取り出して、会社に電話した。通話が終わると、両手でバッテンを作ってイベント中止の合図をした。俺たちは急いで荷物をまとめてワゴン車に積み込み、その場を去った。


 俺はかねてから幕坂さんと仲良くなりたくて、色々アプローチしてきたが、幕坂さんはまるで〝いい女〟のように素っ気なかった。それでも諦めず粘り続けた結果、ちょっとずつ心を開くようになり、世間話にも耳を傾けてもらえるようになった。

 そして、この日の終業後、飲みに誘ったら「ビール一杯なら」と、付き合ってくれた。曰く「コロナ対策が万全」な居酒屋で、とりあえずビールで乾杯した。幕坂さんはビールを泡盛かウォッカでも飲むかのようにチビチビと啜っている。おそらく飲み干す頃にはすっかり気が抜けていることだろう。俺は躊躇なく次から次へと酒を頼んでは飲む。

「斉藤さん、酒がお強いのですね」

「ええ、酒豪の父譲りでして」

「斉藤さんのお父さんは、たしかお坊さんだったと聞きましたが、お酒をよく飲まれるのですか」

 その通り、俺の父親は天台宗の僧侶だ。そのことを幕坂さんに話したことがあった。

「ええ、坊主のくせにですよ。むしろ、仏門を極めるなら酒が必要だとさえ言ってます。『般若心経では〝照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう度一切苦厄どいっさいくやく〟と謳われるが、お釈迦様ならぬ凡人が五蘊ごうんに惑わされずに悟りを開くなんて、酒にでも酔うしか手立てがない』なんて言う始末ですよ」

「……面白いお父様でいらっしゃる」

 幕坂さんはそういってビールを数ミリリットル啜った。「つまりには酒が必要ということですね」

「直に感じる、の直感ですか?」

「いえ、物事をあるがままに方の直観です。お父様のおっしゃるように、酒の力がなければ凡人には難しいかもしれません」

 たわいのない会話であったが、幕坂さんとこうして会合出来たことは、俺にとって大きな一歩であり、充実したひとときであった。


 俺は一緒に飲みに行けたことで、幕坂さんと友達になれたと思った。ところが幕坂さんの社内での態度は前にもまして素っ気なかった。酒の席でなにか幕坂さんの気に障るようなことを言っただろうか、と考えてみても思い当たることがない。俺は酔っても記憶は確かな方だ。一体どうしてこんなによそよそしく接するのだろう。一度本人ときちんと話してみたい。そう思っていると、なんと幕坂さんの方から飲みに誘ってきた。

「……幕坂さん、最近俺を避けていましたよね」

「避けていたわけではありませんが、私を取り巻く暗雲に、斉藤さんを巻き込んでしまうのではないかと怖くなったのです」

「はあ? 暗雲てなんですか?」

 だが幕坂さんは俺の質問を聞いていないかのように、突拍子もない話題を振った。

「神さまって、いるんでしょうか」

「え、神さまですか?」

 俺は鳩が豆鉄砲食らったようになった。「実家がお寺ですからね、それらしきものがいるとは思いますが……でも、全知全能の存在はいないと思います」

「ほう……なぜです?」

「全能者がいるとすれば……全能者自身が持ち上げられない石を創造出来なければいけない、でもそれはあり得ないでしょう。つまり全能者なんてありえないんです」

「……斉藤さんもお父さんと似て、面白いことをおっしゃる」

 幕坂さんはさも愉快そうにビールをちびちび飲む。「だけど、安心しました。きっと神さまはいるんですよ。全能者の持ち上げられない重い石なら、ここにありますから……」

 どういう意味かハッキリわからないが、幕坂さんは重い石を自分自身になぞらえているらしい。俺が色々思い巡らしていると、幕坂さんは脈路なく謎に謎を重ねるように言った。

「斉藤さん、何かあったら聖書を読んで下さい」

「聖書って、俺はお寺の子ですよ」

「探して下さい。そうすれば見つかるでしょう」

 それきり幕坂さんは寡黙になった。伝えるべきことは伝えたというように。


 翌朝、出社してみると幕坂さんが来ていなかった。普段から存在感が薄いためか、誰も気にしている様子はない。しかし俺は何か胸騒ぎがした。俺のならぬが、幕坂さんの身に何かあったことを告げていた。

 俺は上司に「体調が悪いので休みます」と嘘をつき、会社を出た。幕坂さんから以前に聞いていた住所をスマホのマップに入力し、彼のアパートに向かった。なんとかたどり着き、チャイムを鳴らしても返事がない。ドアノブに手を掛けると、施錠されていなかった。

 部屋に入ってみると、俺はわが目を疑った。

 幕坂さんが天井からぶら下がっていたのだ。俺は生まれてはじめて人の死を目撃したというのに、我ながら呆れ返るほどに冷静であった。幕坂の死に様は、まさに殉教だった。


 俺は警察に通報しようとして携帯に110と入力したが、ふと本棚を見ると、一冊の聖書が目に入った。その時俺は、幕坂さんが言ったことを思い出した。

『何かあったら、聖書を読んで下さい』

 俺は本棚から聖書を取り出し、パラパラめくってみた。しかし何の変哲もない文字の羅列。ふと思った。幕坂さんはこうも言っていた。

『探して下さい、そうすれば見つかります』

 俺は聖書に似たような言葉があることに気づいた。スマホでその言葉が聖書のどこにあるのか検索してみた。すると、マタイの福音書7章7節『探しなさい。そうすれば、見つかる』だということがわかり、そこを開いてみた。

 すると、そのページにSDカードが挟まっていた。

(これだ……幕坂さんはこれを俺に託そうとしたんだ)

  俺はそのSDカードをポケットにしまい込み、聖書を本棚に戻した。そして警察に通報した。


 第一発見者ということで、警察の事情聴取はひどくしつこかったが、警察では自殺と断定されたようで、俺は無事に釈放(?)された。そして俺は、その足でネットカフェに行き、パソコンの前に座るとSDカードを挿し込んだ。すると……

「これは!」

 俺はそれを見て生き肝を抜かれそうになった。それは全て会社の不正を証明する資料だった。


 俺は知り合いの週刊誌記者に、幕坂さんのSDカードを渡した。記者はそれを早速記事にし、不正が明るみに出て会社の幹部連中は根こそぎ逮捕された。

 幕坂さんは、亡くなった奥さんの治療費と引き換えに、会社の不正の片棒を担がされていたらしい。ところが近々査察が入るという情報が入ったので会社幹部は幕坂さんに自害を促し、幕坂さんはそれに潔く応じた。もしかしたら奥様のもとへ早く行きたかったのかもしれない。


 会社にとっては密告者となった俺は当然契約打ち切り……となるかと思いきや、そのことについて会社は何も言ってこなかった。相変わらず眠気と共に出社し、疲労を手土産に帰宅する毎日だった。会社から出されたのは不正に関わった人間のみ。あとは何ごともなかったかのように日毎のごうに手を焼いている。

 幕坂さんのことも、まるで初めからそこにいなかったかのように、意識する者はいない。だけど俺は直観した。幕坂さんがたしかに歩んだわだちを。そして、彼のような不正の犠牲者を出さないために、俺は公認会計士の勉強を始めた。

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