浜辺の歌

鹿島 茜

ゆうべ浜辺をもとおれば

 海に来るのは、久しぶりのことだった。


 ことさらに海が好きなわけではない。だからといって、山が好きなわけでもない。都会暮らしばかりだったので、自然に馴染みはなかった。それでも今日は、なぜか海に来てみたかった。


 スニーカーに砂が入らないように、うっかりと波で足が濡れないように、慣れない足もとでふらふらとゆっくり歩いていく。点在する貝殻に目をくれることもなく、波の音に耳を傾けることもなく、いったい何のためにわざわざ海辺へ赴いたのか、自分自身でもよくわからなくなっている。


 彼女を忘れるために、ここへ来た。しばらくの間、一緒に暮らしていたあの人を。どちらからともなく近づいて、どちらからともなくつきあい始め、どちらからともなく同棲し始め、ある日突然終わった。彼女の死によって。交通事故だった。呆気ない最後だった。今でも実感はない。


 人は死ぬ。何をどうがんばったって、永遠に生きることは不可能だ。昔から親に聞かされていた言葉、「マン イズ モータル」。人は必ず死ぬ。人が死ぬことくらい、僕にだってわかる。それが自然現象だから。


 けれども、なぜそれが、彼女だったのか。死を望んでいたわけでもない彼女が。それなら僕が死ねばよかった。代わって死にたかった。どうせ永遠の別れならば、せめて僕が先に死にたかった。


 ゆうべ浜辺をもとおれば、昔の人ぞ忍ばるる。


 昔でもないけれど、つい三ヶ月くらい前のこと。それでももう、彼女は昔の人に、過去の人になっていく。耐えられない気持ち、裏腹に早く忘れたい気持ち、これはなんだろう。いなくならないでほしい。忘れることなんか、できない。なのに、もう捨ててしまいたい思いも強いのだ。解放されたい気持ちがどこかにある。不義理だろうか。酷い男だろうか。愛した人を、捨て去るなんて。


 急に、耳の奥に波の音が、ざざんと刺さってきた。今まで聞こえてもいなかった音が、耳を刺激する。彼女が好きだったヒーリング音楽に混じった波の音、そして不思議なメロディを思い出した。偽物のような、癒しの音楽。目の前の波の音こそ、本物の「おと」。僕にとってはあまり癒しにはならず、何やら胸騒ぎがするくらいの、快適とは言えない音だった。


 昔の人ぞ、忍ばるる。


 君を忘れられるのは、いつのことだろう。忘れられないのか。それとも忘れるのだろうか。君は昔の、過去の人になる。だから忘れられるとは限らない。僕は初めてのような気持ちで、波の音を聞いていた。癒されもせず、慰められもせず。ただ、忍びない心持ちで。


 死なないでほしかった。生きてさえいてくれれば、もっと伝えられたことがあったのに。伝えきれないうちに、君は消えていった。予告もなく、突然に。この世から旅立ってしまった。


 僕にできることなんか、何もなかった。


 僕はやっと、ようやく、一滴の涙を流す




【完】



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浜辺の歌 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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