夜走る

庵字

夜走る

「郊外の森の中にある沼から男の水死体が発見された。一報を受けた直後は事故だと思われたんだが……」


 探偵の事務所を訪れた警部は、定位置のソファに腰を落とすなり話し始めた。


「そうじゃなかった?」


 と探偵もその対面に座ったところで、警部は、


「ああ、というのもな、男が沼に水没する瞬間が撮影された映像が見つかったんだ」

「なんと」

「近くに住む学生が、森に生息する夜行性動物観察用のカメラを設置していて、そこにたまたま映っていたんだ。その映像を見る限り、男は自分から沼に飛び込んだとしか思えない」

「ということは、自殺?」

「ところがだな……まあ、見てくれ」


 警部は懐からUSBメモリを取り出した。


 夜中とはいえ周囲の景色が――さすがに真昼のようにとはいかないが――視認可能であるのは、雲ひとつない夜空から降り注ぐ月明かりと、カメラの暗視撮影機能の賜物たまものだ。林立する木々の向こうに何やら動くものが見える。距離にして十数メートル。野生動物ではない。それはひとりの人間だった。その人物は、膝を屈伸させる準備運動のような動作を見せたあと。大きく息を吸うように胸を張ってから、一気に駆けだした。ストライドも広く、両腕を大きく降り、まるで徒競走でもしているかのような速度で夜の森を駆け抜ける。そして――。


「――あっ」


 映像を見ていた探偵は、思わず声を発した。その人物の姿がかき消えたのだ。もう何度も見ているためだろう、隣で腕組みをしている警部は、その異変にも特段反応を示すことなく、


「草で見えづらくなっているから、映像では分かりにくいが、男が突然消えたように見えるのは、沼に落ちてしまったからだ。つまり、この男は、全力疾走して沼に飛び込んだと見てとれる。俺の言った意味が分かっただろう」

「ははあ……。確かに、これが自殺だったら、威勢がよすぎる入水じゅすいと言わざるを得ませんね」

「おかしいだろ」

「警察の見解としては、どうなんですか?」

「扱いに困っているというのが正直なところだ。事故だと思ったら、自ら沼に飛び込んだ映像があると通報があり、それなら自殺かと見当をつけて持ち込まれた映像を見てみたら……これだ」


 パソコンを消してメモリを抜きながら、警部はため息を吐いた。


「この被害者――とりあえず、そう言っておきますが――に自殺する動機などは?」

「今のところ浮かんできていないな。だがな、この男に殺意を抱いていたと思われる人物なら捜査線上に浮上している」

「えっ? 誰です?」

「男が付き合っていた女性の兄貴だ」

「恋人のお兄さんが、どうしてまた?」

「死んだこの男は、筋金入りの甲斐性無しらしくてな、子供っぽくて、働く意欲もないうえ、たまに就いた仕事も長続きしなく、自堕落な生活を送っていたらしい。恋人に何度も金の無心をしていたそうだ」

「それじゃあ、かわいい妹の境遇を見るに見かねて、ということですか?」

「そこのところの事情が複雑らしいんだな。何でも、こんな甲斐性なしの男でも、恋人の女性は特に不満を抱いていた様子もなく、金の無心にも、はいはい言って渡していたらしい」

「それは、あれですか、『この人には私が必要なの』的な、駄目男に惚れてしまうっていうパターンだったというわけですか」

「どうやら、そうらしいな。まったく、女心は理解できんよ」

「警部、今の時代、そういう物言いは問題視されますよ」

「とにかく、当人同士の関係に問題はなくとも、肉親はそう思っていなかったんだな。特に、その恋人の兄貴というのが、公務員をしているだけあって生真面目な堅物でな、表面上は何のトラブルもなく二人と接していたんだが、飲み会の席などで、『妹が、ろくでもない男にたかられている』と同僚にこぼすことがあったそうだ。『出来ることなら殺してやりたい』なんて物騒な台詞を吐いたこともあったんだと」

「ははあ、なるほど……。で、そのお兄さんにアリバイは?」

「これが、あるんだな。しかも、文句なしのやつが」

「それは困りましたね。まあ、さっきの映像には、間違いなく被害者ひとりしか映っていませんでしたからね、現場に居合わせなかったというのは間違いないことでしょう」

「だろうな。この映像自体、偶然撮れたものだからな」

「ですよね」

「何にせよ、この映像は明らかに異常だ。ただの自殺とは思えん」

「同感です」

「なあ、どうにかして、遠隔操作で被害者を殺す手段はないものかな?」

「催眠術でもかけたっていうんですか? 夜中に森に行って全力疾走で沼に飛び込め、っていう」

「本気で言ってるのか? そんなことは不可能だろう」

「分かってますよ。まあ、とにかく現場に行ってみましょう」


 探偵は、ハンガーに掛けてある愛用の白いジャケットを掴んだ。



「気をつけろよ、この沼は浅瀬がなくて、いきなり深みになってる」


 沼の縁に立ち、淀んだ水面を覗き込んでいる探偵に、警部が声をかけた。死体が上がったこの沼は、水面と地面との高低差がないため、一見すると海岸の波打ち際のように、徐々に水深が増していく地形のように見えるが、その実、警部の言葉どおり、地面と水面との境で急に寿司心が深くなる地形となっていた。

 顔を上げた探偵は、鬱蒼とした森を見回して、


「この森には、これと似たような沼がいくつかあるみたいですね」

「ああ、そうだな。こういう沼地が出来やすい地形なのかもしれん」

「ところで、死んだ男は、この辺りに住んでいたんですか?」

「いや、この近くにあるペンションに宿泊中だった。恋人の女性と一緒にな」

「どうせ、宿泊費は女性のほうが出したんでしょうね」

「いや、調べによると、代金を持ったのは兄貴だそうだ」

「それは……ますます怪しいですね」

「だろ。ペンションの宿泊券があるから、二人で泊まってこいと渡されたらしい」

「ふうむ……」探偵は、もう一度周囲を見回してから、「ちょっと、歩きませんか」


 森を歩くうちに二人は、現場と似たような沼地の前に出た。


「現場とそっくりだな」

「森の中なんて、風景が代わり映えしませんからね」


 言いながら探偵は、おもむろに石を拾い上げると、サイドスローで放った。石は回転しながら何度も沼の水面を跳ね、数メートル向こうの対岸に到達した。


「やりました、警部」

「遊んでる場合じゃないぞ……」


 呆れ顔を見せながらも警部も石を拾い、野球の投球のように振りかぶる。そのフォームを見た探偵は、


「それじゃ駄目ですよ、警部。石の“水切り”は、なるべく水面と平行になるよう、鋭角に投げるのがコツです。そんな投げ方じゃ――」


 が、探偵の予測に反して、オーバースローのフォームから放たれた警部の石は、見事に水面を跳ねた。


「やったぞ!」

「そんな馬鹿な? あんなに鈍角で水面に当たったのに……」


 水面に跳ね返されるように高く上がったあと、重力に引かれて落下してきた石は、だが、再び跳ねることはなく、今度は飲み込まれるように水中に没していった。


「惜しかったな……。おい、どうした?」


 警部が目を向けた探偵は、無言のまま、濁った水面に広がる波紋を眺めているだけだった。


「……警部」しばしの沈黙の末、探偵は、「水死した男ですが、雨具のようなものを着ていたんじゃありませんか?」

「よく分かったな。そうだ、死体は雨具に長靴掃きだった。当夜は晴れていたのに」

「それで分かりました」

「分かったって、何がだ?」

「お兄さんが被害者を殺した方法がですよ」

「なにぃ?」

「警部、この沼は、“ダイラタンシー流体”なんですよ!」

「レインボーマンの師匠がどうしたって?」

「それは“ダイバダッタ”です。ダイラタンシー流体というのはですね、簡単に言えば、液体と粉末粒子の混合物です。見た目は液体そのものですが、急速に強い力が加わったときだけ、固体のような性質を見せるんです」

「どういうことだ?」

「例えば、ダイラタンシー流体の上に、そっと足を入れたら、当たり前のように沈み込んでいきますが、その上で素早く足踏みを続けると、足は沈み込まずに、まるで地面の上にでもいるかのように、ずっと足踏みを続けていられるわけです」

「そんなものがあるのか?」

「あります、まさに、僕たちの目の前にある、この沼がそうですよ」

「――あっ! だから、さっき俺が投げた石は……」

「そうなんです。水面に対してあんなに鈍角に石を投げ込んだら、通常の液体であれば当然水中に没してしまいます。が、それがダイラタンシー流体だったなら……」

「固体にぶつかったみたいに、跳ね返してしまうというわけか!」

「ええ、ですが、粒状の土砂が程よいバランスで混合されるという条件がありますので、この森の沼すべてがダイラタンシー流体というわけではないでしょう。例えば、男が水死した沼は違ったはずです」

「で、どうやって兄貴は男を殺したと?」


 兄は、この森に点在する沼のひとつが、ダイラタンシー流体であることを前もって知っていた。そこで、近くのペンションに妹と男を宿泊させ、男だけをこっそりと森に誘い出す。そこで兄は、ダイラタンシー流体の特性を生かして、水面を疾走するパフォーマンスを見せた。「これをマスターして妹に見せたら喜ぶぞ」単純で無邪気な性格だった男は、その言葉を真に受け、やる気を見せた。「最初はうまくいかないだろうから、濡れてもいい格好をしてから練習に来たほうがいい。妹をびっくりさせるために、練習は夜中にやったらどうだろうか。場所がわかりにくいだろうから、この沼地の地図を携帯に送っておく」こう言い含めて兄は、そことは違う、当然ダイラタンシー流体ではなく、水際が突然深みとなっている危険な沼へと導くニセの地図を男の携帯電話に送っていた。「沼の水深は腰くらいまでしかないから、最初から思い切って助走をつけて走ってみろ」という文面と一緒に。その携帯電話は水没した際に壊れてしまっていたが、探偵の推理を受けてデータは復元され、兄を追い詰める強力な証拠として甦った。

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