第6話 千里の決意

 東京での2ヶ月の研修中、僕は各部署の見学と仕事の体験で毎日忙しかった。現場の人ほど人に優しいし、丁寧に教えてくれるが、本社の人は何処となく僕は合わなかった。そこで働いている人々は余裕がなく、皆凄く窮屈そうだった。


 研修は5月の終わりまで続いた。研修スケジュールは毎日ぴっしり組まれていて大変だったが、思いの外2ヶ月の研修は早く過ぎた。

研修中、僕は宣言通り千里に電話をかけなかった。千里だけじゃなく、大学の友人にも、実家にも電話をしなかった。

でもそれも今日までだ。明日配属先が発表され、一旦地元に帰らされる。僕は千里に会えることが嬉しくて、明日が待ち遠しかった。


 次の朝、新卒者102名が研修所の講堂に集められた。最初に人事部長の話があり、いよいよ配属先の発表だ。

2ヶ月同じ研修所にいた仲だから。みんなの地元や配属希望先はわかっている。次々に配属先を人事課長が読み上げ、一人ひとりに辞令が手渡された。

これまで読み上げられた同期は地元の支店か工場に配属が決まり、笑顔で後の発表を聞いている。


 そろそろ僕の番だ。人事課長が僕の名前を告げた。僕は前に出て辞令の交付を待つ。

「工藤良、本社人事部」

「えっ!」

僕の頭の中はまっ白になった。後頭部を棍棒で殴られたような衝撃だった。

僕の頭にあったのは、希望していない仕事に対する残念な思いじゃない。崩れていく千里との未来だった。

 

 発表の5時間後には僕と千里は喫茶「JANE」のカウンター席にいた。

マスターを交えて、僕は彼女にはっきり伝えたかった。

東京の本社人事部で働く事、

それがいつまでかはわからない事、

そして1番伝えたかったことは、僕が千里を迎えにくるまで、千里に待っていて欲しいという事だった。

いつか彼女が言った“私は良に養って貰うのだから”って言葉を僕は信じていたから、彼女に今の自分の気持ちと将来の計画を素直に話した。

 

 彼女はしばらくホットミルクを見つめていた。そしてやっと口を開いた。

「ごめんなさい。私はあなたを待てないし、何よりここにずっといなきゃいけないの。母は私を絶対に手放さないし、私も母を一人にはさせられない」

「あなたとのことは忘れることのない一生の思い出。あなたが大学を卒業するまでに私に与えられた神様からの贈り物。私は今日の日が来る覚悟をもって付き合ってきたの。もう終わりにしましょ」

「どうして君はそんなふうに決めつけるんだ。僕には理解できない。しなきゃいけない”じゃなくて、”したい”っていうように千里の気持ちを大切に考えてみてくれよ」

「もし、ここで暮らしたいなら、ここで仕事を探すよ」

僕は簡単には引き下がらなかった。1番大切なものを守るために。


 「そんな事じゃないの。良、あなたはせっかく小さなこの街を抜け出て、大きな会社に就職する。あなたには無限の可能性があるのよ」「あなたは私達親子のことを何も知らない。私はここで母と生きるようにできているの」

「二人の未来はもう一つじゃないの」

「ねえ、良、わかって」彼女は震えながら、大粒の涙を流した。僕にはわからなかった。母親だったら、一番に娘の幸せを願うはずだ。彼女は何を抱えているんだろう。


 暫くして彼女は自分の車で帰って行った。

「マスター、千里が言ったことがわかる?俺にはあんな理由で別れようというアイツの考えが理解できないよ」

マスターはカウンターの上のカップを片付けながら、

「良、良かったら今日はここに泊まって行けよ。少し話そう」と言って店を早めに閉めてくれた。


 ジョニ黒のロックを飲みながら、千里の事を話した。どうやらマスターは千里の家庭の事情を僕より知っているらしい。

彼女の母の容態や、母親がどうしても千里を手放そうとはしないこと。

実はもっと事態は深刻で彼女は小さな頃から母親に支配されてきたこと、

それとなにより僕の将来を考えてくれている事。


 これまで僕と一緒にいる時間を作るのは彼女にとっては大変だったのだろう。僕には彼女にそれ以上僕の気持ちを押しつけることはできなかった。一番辛いのは彼女で、僕の気持ちはあの時の彼女にとっては負担でしかないと思った。

 

 僕には東京に引き返して、仕事をやるしかなかった。だが、こんな気持ちで、ましてや希望しない仕事をやっていけるだろうか?

僕は仕事の不安と千里との別れに心を掻き乱されて、今すぐ倒れるまで走りたかった。


 僕は少し仮眠を取った後、朝早くバイクでアイツとよく走った海沿いの道に向かった。しばらくは帰ってこない。この道を走ってアイツとの思い出を心に焼き付けたかった。絶対にまたここに帰ってくると、彼女との思いでの桜並木を駆け抜けながら心に誓った。


第6話完

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