最後の焼き鳥

鹿島 茜

最初の焼き鳥と最後の焼き鳥

 カウンターと三つほどのテーブル席。昔ながらの古い焼き鳥屋まで、四人で歩いた。焼き鳥屋というものに入ったこともなく、酒も飲んだことのない香奈かなは、勧められるがままにオーダーした。19歳になったばかりの初冬のことだった。

 なんの話をしていたのかも思い出せず、どんな種類の焼き鳥を食べたのかも思い出せず、ただ思い出すのは翔太しょうたの怒ったような一言だけだ。


「僕ね、香奈ちゃんが好きなんだよ」


 翔太はひと回りも年齢が上で、すでに結婚し、小さな息子と娘がいた。仕事を辞めて、社会人入学で大学へやってきたらしい。地方で妻が働きながら、翔太の学びを支えていた。妻と子どもがいる男から、好きだと言われた。

 思えばあの頃から、自分の人生にケチがつき始めたのではないかと、香奈は電車に揺られながら思う。


「僕ね、香奈ちゃんが好きなんだよ」


 だからなんだと言うのか。好きでどうなると言うのか。結婚している男が誰かを好きになるのは自由かもしれないが、好きになられた方はとんだ災難だ。

 翔太とはなんども二人きりで話したり、お茶を飲みに行ったり、食事をしに行ったりした。一度だけハグして、おでこにキスをされた。香奈はドキドキしたが、子どもだったのでそれだけのことだった。

 その翌年には、翔太の家族が東京に出てきて、翔太は自分の家庭の中で暮らし始めた。翔太一家の歓迎会が開かれた際に、香奈も妻や子どもたちの前で自己紹介したのだが、「あら、あなたが翔太の彼女ね」と言われてしまい、ひどい恥をかかされた。翔太は香奈に心が揺れたことに勝手に罪悪感を覚え、妻に告白していたのだ。それを皆の前で言う妻も妻だが、なにより翔太に腹が立った。

 怒りに遅い香奈は、自分自身が恥をかいたことにしばらく気づかなかったが、数日経過してから涙が出るほど情けなくなった。泥棒猫みたいた扱いを受けて。悪いのは、勝手に好きになった翔太の方なのに。


 苦くてまずいビールとともに、熱い焼き鳥にかぶりつく。塩が一番だ。皮が好きで、心臓が好きだ。つくねはいまいち。焼き鳥を食べるたびに思い出す、翔太の「好きなんだよ」という苛立ちを込めた一言。なにを苛立っていたのか。ひと回りも下の小娘に心が揺れたことを、苛立っていたのか。

「知ったこっちゃねえよ」

口の中でつぶやいて、串に残った最後の一口をかじる。


「香奈ちゃん、好きだよ」


 一度ケチのついた人生は、なかなか取り返すことができない。香奈に言い寄る男は、なぜか既婚者ばかり。そんなに隙だらけに見えるのだろうか。男に舐められているのだろうか。遊び相手に最適だとでも言いたいのか。

 不倫をしたこともある。それも複数回。行きずりの男と一晩過ごしたこともある。財布を盗まれなくてよかったとしか思わなかった。焼き鳥の塩味が口に染み広がって、なんとなく痛みを感じる。

 勘定を済ませて店の外に出ると、冷たい北風が香奈の首筋をすり抜けた。寒い。翔太のいい加減な告白から、もう20年が経っていた。恥をかかされたことを、今も忘れてはいない。


 もう二度と、焼き鳥は食べない。ほろ苦い恋の真似事は、あの日の焼き鳥屋に置いてきた。年末でこの店も閉店するという。もう知っている人は誰もいない。学生たちも、こんな古くさい店には来なくなったのだろう。

 生まれて初めて男から告白されたのが、場末の焼き鳥屋。それも既婚者から。災難にも程がある。馬鹿にするな。

 香奈は夫の待つ家へと急いだ。焼き鳥の土産も持たずに。もうこんなもの、食べる必要もないから。


 星の輝く夜空を見上げ、小さな声で言ってみる。


「ねえ、あなた、まさか不倫してないよね」


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最後の焼き鳥 鹿島 茜 @yuiiwashiro

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