5 これで完璧です

 手渡されたスケッチブックには風景が描かれていた。桜の花が満開のこの公園の絵だった。スケッチブックを手に写生していたのかと思っていたが、描かれていたのは上空からこの公園を見下ろした鳥瞰図だった。城跡を囲む石垣と薄桃色の桜並木はちょうど私たちが立っている箇所の遠景だ。石垣を取り巻く濠は空を映して青い。淡い色遣いが春らしい水彩画だが、上手だとは言いがたい。


「へたくそでしょ。でもインターネットで売れるんですよ、私の絵。いかにも手で描きましたっていう不細工な絵だからこそでしょうね。いまはAIも絵を描く時代だから、上手で整った絵はAIが描いたんじゃないかって敬遠されるんです」


 たしかに、下書きはところどころ遠近感がおかしくて、絵の具による彩色もふちが汚く滲んでいるこの絵は、いかにも人間らしい。なんだ、私が求めていたものはこんなところにあったんじゃないか。


「だから、いま私の仕事は画家なんです。ホームレスに見えるかもしれませんが、いや、じっさい住むところはないんですけどね」


 そういってコノエは、日に焼けた顔をほころばせた。なんの屈託もないその笑顔がまぶしくて私は目をそらすことができなかった。私も人としてこうありたいと心の底からうらやましかった。


「でもね。なにか足りないんですよ」

「え」


「この絵です。今回はいつもにも増してうまく描けたと思うんですけど、なにかが足りないような気がするんです。美しいんだけど魂が入っていないというか、この絵はもっとよくなるはずなんです」


 そういって私からスケッチブックを受け取ると、桜並木ながめたり、濠を見渡したり、空を振り仰いだり、最後には私の顔をのぞきこんだりして首をひねっていた。そうしながらスケッチブックの絵を眺めているうちに、「うん、こうすれば……」と絵筆をとってなにやら書き加えはじめた。そして、1分ほどもそうしていただろうか、満面の笑顔でこちらにスケッチブックの絵を見せてくれた。


「よくなりました。完璧です」


 絵は一見しただけではなにも変わっていないように見えた。薄桃色の桜、深く青い濠の水、柔らかな春の色をまとった公園だ。いや、まて。これはなんだろう。この石垣のうえのベンチの脇にたっているのは。スケッチブックを抱え、手には絵筆のようなものを持っている。


「これは――」


 コノエだ。絵を描いているコノエに違いない。


「あなたですよ」


 意外な言葉に混乱している私にスケッチブックを押し付けると、彼は謎めいた笑顔を拭って大きく伸びをした。


「これはあなたに差し上げます。いや、私はあなたにもらってほしいんだ。この絵はいまのあなたにこそふさわしい。おや、ミダリが戻ってきたようですよ」


 遊歩道から土手を上ってくると、私の鞄をベンチの上に放り投げ、なにごともなかったかのようにミダリがいった。


「どうやら気づいたようだな。どうだったコノエの能力ちからは。面食らったかもしらねえが、その代わりいい顔になってるよ、あんた。ああ、いいんだスケッチブックはもらっておけ、絵以外はどうせ安物だ」


 そして、私が声をかける間もなく、コノエに行こうぜと促して歩きはじめた。


「それじゃあ、元気で」

「あとは、あんた次第だ。おれたちのこと、忘れたってかまわねえが、いま気づいたことだけは忘れんじゃねえぞ」


 ふたりのは連れ立って土手を下り、やがて満開の桜の向こうへ姿を消した。


 不思議なふたり連れがいなくなった石垣の上は、ベンチの上に食べかけのコンビニ弁当が残され、花見客のあげる酔声も遠くふたたび静かになった。すべては元のとおりに戻ったようで、私が経験したことは夢の中の出来事のように感じられた。ただひとつ、手の中に残されたスケッチブックを除いては。


 それから一時間、私はベンチに座っていた。濠へ張り出した桜の枝から、花弁が雪のように降りかかる。春の風が枝のあいだを吹き渡るたびに、水面に浮かぶ花筏が大きくなってゆくのを見守っていた。


 午後三時、私は携帯端末から訪ねるはずだった顧客の会社へ連絡を入れた。今日は伺うことができませんと。


「申し訳ありません。システムの作り込みに数日いただけませんか。いいえ、これは『Skyhigh』との契約外の作業です。延長料金はいっさいいただきません」

「わたしの納得いくシステムを作らせてください」

「かならずご満足いただけるものを作るとお約束します」


 やりとりは短かった。私のすべきことははっきりしていたからだ。顧客は納得した。


 私は電話を切ると、その手で『Skyhigh』の担当へメッセージを送信した。


 ――ばかにするな。ばかやろう。






 それから私はなんども仕事でA市を訪れた。不細工ではあっても、それなりに私らしい仕事をするためにやってきた。そして、来るたびに駅前の城跡公園へ足を運び、石垣のベンチで弁当を広げる。でもあの日以来、一度も不思議なホームレスの姿を見かけたことはない。胸のポケットには、いまもあのとき絵がしまってあるというのに。彼らとは、ほんとうにここで会ったのだろうか。


 今年もまた、桜の季節がやってくる。

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花筏(はないかだ) 藤光 @gigan_280614

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