4 さあ、描けました

 私がフリーのシステムエンジニアとして働くようになって五年あまりたつ。以前は、企業・官公庁向けに強い大手コンピューター関連企業に在籍していた。官公庁へ納入する数億円規模の大きなプロジェクトに参加したこともある。じぶんの能力が生かせるやりがいのある職場だと思っていた。システムエンジニアは組織にとってより良いしくみ生み出す仕事だと信じていた。


「でも、変わってしまった。大手出版社の下請けとなった私の職場では、私たちのやりたい仕事はできなくなりました。すべて作る本は本社の編集会議を通さなければなりません。そこで話し合われるのは、本の良しあしではなく、売れるか売れないか、いくらで売れるかといったことばかりでした。私たち編集者も常に効率よく働くこと、新しい企画を上げること、会社に利益をもたらすことを求められました。そうするうちに、私は疲れ切ってしまったのです」


 責任のある仕事を任されるようになると、私はじぶんの仕事に自信がもてなくなった。現場の仕事だけでなくプロジェクトの予算管理や、部下のマネジメントを求められるようになったのだ。管理職になると分かることがある。会社は利益を上げるために企業活動をしているのだ。従業員にやりたいことをやらせるためではない。


「抵抗しましたよ、私も。私たちの仕事は良い本を作ることだ、子どもたちを集金の道具のように考えるのは間違いだと。でも、会社からは相手にされませんでした。何をいっているんだと冷笑されただけです。おどろいたのは一緒に働いていた同僚の態度でした。同じ社長の元で、いっしょに良い本を作っていくのだと信じていましたが、そう思っていたのは私だけだったようです。私は同僚たち避けられるようになりました」


 じぶんのやりたいことをやろうとすると、会社の方針にたてつくことになる。すると、みんなそうした人と関わりることを避けるようになる。じぶんも会社からにらまれるのではないかと勘ぐるからだ。プロジェクトは停滞し、新規企画は採用されなくなった。何人もいた部下は徐々に私のチームを離れてゆき、気がつくと私は会社で孤立していた。いくらよいプロジェクトもひとりで回せない。度重なるプロジェクトの延期に、顧客からのクレーム対応。私は疲れ、引き留められることもなく会社を辞めた。


「私は傷ついていました」


 はっとしてうつむいていた顔をあげた。コノエを見ると彼もまた絵筆をとめて視線を私に向けていた。いまここにあふれる春の光のような優しい目をしていた。


「そう、いまのあなたのように」

「わたしが……傷ついている?」


「あなたのように怒り、あなたのように悩み、あなたのようにもがいていました。ただ、あきらめたくはなかった。そして、私は会社をクビになりました」


 彼のいうとおりなのだろう。私たちは同じだった。求めたものは得られず、裏切られたと感じている。しかし、彼のまなざしの優しさはどうしたことだ。私にはとても同じ目で世界を見ることができているとは思えない。


「不器用なんですね。これと決めたら、じぶんでじぶんの考えに手足を縛られてしまうというのは。周囲の環境の変化や、人の気持ちの移り変わりといったものを見ずにすませようと考えてしまう。それが要領よくやることだと勘違いしていたのかもしれません」


 だから、私は『Skyhigh』に登録した。今度こそは、会社に求められる人材になろう。効率的に働き、利益を上げ、顧客を満足させるシステム・エンジニアになるんだと――。


「だから、今度は絵を描くことにしたんです」

「絵を。どうして?」

「どうしてって、そりゃ、それがやりたいことだったからです」


 彼はもう絵を描いてはいなかった。仕事を辞めてまでやりたいといった絵を描くのをやめて私に向き合ってくれていた。私には聞きたかった。なぜ――。


「なぜ、わたしとあなたは違うんだ。わたしには、あなたのような目で世界を見ることはできない。仕事も辞められない。生き方を変えられない。何がちがうんだ」


「なにも」


 コノエはやはり笑っていった。


「わたしとあなたは違わない。だた、それが早かったのか、遅かったのか、それだけです。さあ、描けました。見てもらえますか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る