3 わたしもそうでした
私は浮浪者の声とは無関係にベンチを腰を下ろして頭を抱えた。
「うるさい。なんでもわかってるような気持ちの悪いこというな。わたしのことは放っていてくれ。これから仕事があるんだ、お前たちとはちがうんだ!」
「同じですよ。それはミダリがそういったとおりだ。あなたと私たちは同じです」
そういった男――ミダリはコノエと呼んでいた――を振り返ると、先ほどと変わらず立ったままの姿勢でスケッチブックを手に絵筆を動かしていた。まだ春なのに、擦り切れたコートの袖から見える手首はよく日に焼けて浅黒い。
「ちがう。お前とちがって、わたしは働いている」
フリーのシステムエンジニアであることの言い訳をするかように、私はじぶんの生白い手首を意識しながら目の前の男のことを非難した。
「昼間から絵を描くしかすることのないようなやつとはわけが違う」
「私もそうでした」
なんだと。
「私も働いていました。働いているときは、普通の会社で、普通の従業員として、普通の仕事をしていると思っていました。ミダリもそう。ずっとこうだったわけじゃない。どうです、あなたと同じでしょう? わたしたちとあなたの間に違いがあるとすれば、わたしたちがじぶんの現状を受け入れているのに対して、あなたは受け入れていないということだけです」
なんていうことをいうんだ、こいつは。浮浪者と私が同じだって? 私にそのことを受け入れろだって? とんでもない。とんでもないことだ。私のようにきちんと働いている人間が、働きもせず遊んでいる浮浪者にこんなことをいわれて黙っていてはいけない。
「受け入れる? いったいなんのことだ」
「私もそうでした」
コノエはもう一度繰り返した。いったいなんのことをいっているんだ。
「受け入れられませんでした。会社を解雇されたときはね。これでも出版社の正社員だったんですよ。編集をしていました」
この男が何を話そうとしているのか、私にはさっぱり飲み込めなかった。出版社の正社員だった? それがどうだというんだ。『Skyhigh』の契約事業者――字面は立派だが、その実態は契約した人材派遣企業に短期・不定期派遣を強いられている非正規の就業形態だ――である私に対する当てつけなのか。
「家族経営のね。小さな会社でした。出版点数は少なかったけれど、教育関連の良書が多いと評判の会社で、わたしもいくつか本を手がけてさせてもらえました」
コノエはどこか遠くを見るような目つきで、手にもったスケッチブックに絵筆を走らせていた。口をひらくときもそれは変わらず、私の方をいっさい見ようとしなかった。まるで、ここに私がいないかのように。
「でも、少子化の時代ですからね。子ども相手の本を出し続けるのは、あの会社の体力じゃもたなかった。だから大手出版社に身売りしたんです。とたんにわたしの仕事は様変わりしました」
「変わった?」
「ええ、大企業の下請けに入ると、わたしたちは最初に利益を上げるように求められました。それと効率化もです。短い時間で最大の効果を上げろといういうわけです」
嫌な予感がした。最小の費用で最大の効果を――というのが『Skyhigh』の掲げる企業モットーのひとつだったからだ。
「前の社長の口癖とまるで逆さまでした。よく言ってました『いいものを作るためには、金も時間も要る。この仕事で採算は二の次だ』と。じっさい社長の経営は、良くいっておおらか、悪く言えば放漫で赤字を出すこともしばしばでした。昔気質の出版屋でしてね。納得のいかない本はいくら売れるとわかっていても刷ろうとしませんでした。ま、それが時代に合わなくなったということなのでしょうが……。私には居心地がよかったですなあ」
「居心地よかったといっても、そもそもその会社がなくなってしまっては意味がない。あんたの社長は無能な経営者だったということだ」
「経営のことなど私には分かりませんが、社長はじぶんが経営者だなんて考えたことはなかったと思いますよ。ただ良い本を作りたい、そう考えていただけなんじゃないでしょうか。会社がどうとか、経営がこうとかより、それはずっと大切なことと信じてたみたいですよ」
私は返す言葉が見つからなかった。なにしろ私自身が、そうだったからだ。
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