とんかつを抱えて走れ

吉岡梅

とある昼過ぎの台所

 ぶた肉を包丁の背中でトントコ叩く。今日は奮発してヒレを厚く切って貰った。ちょっと平たく伸びたかな、くらいになったら手で元のサイズに戻して塩コショウを振り、小麦粉→解き卵→パン粉の順にまぶす。


 それを揚げ物用の鍋の端から滑らせるようにして投入すると、シュワアアアという音と共にぷくぷくと気泡が上がって来た。まずはよしだ。


 たすくがふいーと息を吐いて時計を見ると、午後2時だった。日曜日とはいえ、なぜこんな中途半端な時間にカツを揚げているかと言うと、小弓こゆみが貸してくれた本のせいだ。


 外出がちょっと憚られる時期でもあるので、何かお勧めの本が無いかとLINEを送った所、<読め>の一言と共にその本がKindleへと送られてきた。お昼を済ませて読み始めたところ、あるシーンが出てきた。


 時間は夜。主人公の女性がとあるお店に入り、おいしいカツ丼を食べる。そして、あまりのおいしさに感動し、衝動的にテイクアウトを注文して離れた場所にいる恋人というか、かたわれというか、そんな男性の元へとタクシーを飛ばして届けに行くのだ。月光の中、できるだけ温かいうちにこのカツ丼を食べて欲しい、みたいな感じで。


 そこまで読んで、佑はいったんタブレットの画面を消した。素敵なシーンなんだろうな、と思ったが、なんだかムズムズしたのだ。


 ひょっとしたら小弓はこのシーンを読ませたかったのかもしれない。佑は静岡、小弓は東京に住んでいるが、最近全然会いに行っていない。小弓はそれを不満に思っていて、一種のあてこすりとしてこの本を送り込んできた可能性がある。それがちょっと来たのだ。


 そしてもうひとつ気になる個所が。――カツ丼だ。確かにカツ丼は美味しい。甘めのだしで玉ねぎと一緒に煮込んで卵で閉じたりしていたらなおさらだ。でも、突然離れた場所にいる恋人に届けにいくほどだろうか。違うだろ。それは違うよ。佑はそう思った。


 カツ丼じゃ足りないだろ。つか、もっと上があるだろ。この主人公はわかってない。わかってないんだ。とんかつを一番おいしく食べる方法を。とんかつを一番おいしく食べたいなら、深夜に恋人に届けるなら、そう、カツサンドだろ――。


 佑は自分でも理不尽だと思う憤りを抱え、衝動的にご近所でおなじみの精肉店「豚珍館とんちんかん」で豚ヒレ肉を購入し、台所に立っていたのだ。俺は今すぐカツサンドを作らねばならぬ。その確信を胸に抱いて。


 蛇口をひねって粉を洗い流し、食パンを取り出して耳を落とす。カツの揚げ具合を横目に見つつ、レンジをトースターモードにしてパンを焼く。ケチャップ・ソース・粒マスタード、そして甘み付けのためのケチャップマニスを小鉢でぐるぐるかき混ぜていると、とんかつがいい感じの色になってきた。ころあいだ。


 油からすくい上げて、キッチンペーパーの上において油を切る。トーストを取り出し、熱いうちにバターを塗る。いい香りだ。少しとんかつを休ませた後で、包丁でカットすると、さくっ、さくっと包丁に合わせて小気味のいい音が響いた。佑はこの音が大好きだ。「いいね」と思わず声が出た。


 トーストにとんかつを載せ、ソースをたっぷりと塗ってサンドする。キャベツはいらない。パンと肉のみ。今日はそんなストロングスタイルで食べたい気分なのだ。サンドできたら、ラップでくるりと全体を巻いた。その上にボウルを載せて重しにする。パンとソースととんかつがまでこうしておくのだ。


 なじんだところで、ラップをしたままカットする。こうするとパンと具がずれずに綺麗に切れる。パンを潰さないよう、包丁を押し付け過ぎずに滑らせるのがコツだ。よし、いい断面。佑は頷いて、いよいよ温かいカツサンドを食べ……ない。食べないのだ。


 そのままカツサンドをキッチンに置いて部屋へと戻った。カツサンドは暖かいうちに食べても美味しいが、冷めていた方が似合う。冷たくなった甘辛いソースととんかつを頬張るのがベストだ。温かいうちに食べるなんて、もったいない。わかってない。佑はそう考えていた。



 そして夜の9時。風呂から上がった佑は再びキッチンにいた。テーブルの上のカツサンドは程よく冷えている。ちょっとしんなりしているトーストを手に感じながら、がぶりと齧り付いた。


――クソうまい


 しんなりとしたトースト、ソースを十分に含んだ衣、そして肉の感触が順番に押し寄せる。ひと噛みするたび、とんかつからひかえめに肉汁が流れ出す。と、同時に顎の下の方からは、少し痛みを感じるほどの感覚で唾液があふれ出てくる。口を大きめに開けないと厳しいほどの厚みの、冷えて程よく硬くなったパンと肉を噛むのが楽しい。うっわ、肉食ってる。噛んでるわーという喜び。そして思い出したかのようにふわっと香るバター。おいしい。ただただおいしい。佑は夜のキッチンでひとりきりで、夢中でとんかつを頬張っていた。


 と、その時、急に小弓の顔が浮かんだ。え。なんだこれ。カツサンドを口一杯に入れたまま佑は戸惑った。戸惑ったが、ちょっと笑ってしまった。あー、マジか。これか。


 佑は残っているカツサンドをタッパーに入れると、着替えて車へと向かった。助手席にタッパーを載せてエンジンをかける。行先は、そう、東京だ。


 きっとあの小説の主人公もこんな気分だったんだろう。カツ丼が温かいうちに届けたいというのは、いいわけだ。ただ単に会いに行きたかったんだろう。じっとしてなんかいられなかったんだろう。おいしいものを食べて欲しかったんだろう。そこにカツ丼とカツサンドの優劣は無い。わかってないのは佑の方だった。


――それでもやっぱり一番うまいとんかつの食べ方は、カツ丼じゃなくてカツサンドだけどね。しかも冷えたやつ。


 そんな事を考えながら、助手席にカツサンドを載せて夜の道を走りだす。できたてからは時間が経っていて、ちょっと冷えてるそれと共に。


 小弓はなんて言うだろうか。たぶん怒られるんだろうな。呆れた顔で文句を言う小弓を想像をしながらも、佑はなんだか楽しくなっていた。

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