ブレードランナー

真野てん

第1話


 幻となった2020年東京オリンピック、及びパラリンピック。

 時代のうねりに翻弄された人々の傷はいまだ癒えず、出口の見えない不安といらだちに日夜さらされていた。


 ここにもまたひとり。

 その身に浴びるはずだった栄光のすべてを捨て去り、ただ生きるための走りを余儀なくされた少女がいる。


 深夜、ひとけのないダウンタウン。

 薄汚れた路地裏の、さらにうらぶれた危険な場所だ。


 そこら中からマリファナの匂いが漂い、使い捨てられた注射器シリンジが踏みつぶされチャリチャリと嫌な音を立てた。


 そんな場所に缶スプレーで引かれた100メートルの白線が、ケバケバとしたイルミネーションの光で浮かび上がっている。

 急ごしらえの陸上の直線コースだ。


 両サイドには廃墟となったビルがあり、割れた窓からはジャンキーたちが卑猥なスラングを喚き散らしながら、ビールをあおっていた。

 さながらゾンビ映画にでもありそうなシチュエーション。


 そしてスタートラインには三人の人物がいた。

 ひとりはアロハシャツに短パンといった見た目からして軽い男だった。

 腕にはダイヤ入りの豪華な腕時計をしている。

 濃い色をしたサングラスの下、緩み切った品のない笑顔がにやついている。


 残りのふたりはランナーだった。

 ひとりは長身で体躯もすばらしい白人の男。全身よじった針金のような筋繊維の持ち主だった。

 一方、相対するもうひとりのランナーは。


「あんたが噂の”デッカード”さんかい? まさか女だったとはな」


「だったらなんだってのさ」


「いや――本気で走っちゃ悪いかなと思ってね」


「いまから負けたときの言い訳? さすが英国紳士は違うわね」


「なっ! 口の減らない女だ! 吠え面かかせてやる!」


「いーだっ」


 褐色の少女が舌を出して相手を挑発している。

 鍛え上げられたシックスパックの腹筋が、上下セパレートになったユニフォームからむき出しになっている。

 さらにその下方。

 素晴らしく引き締まった大腿四頭筋からつま先にかけて、彼女が”デッカード”と呼ばれるゆえんがある。

 少女の右足は、カーボンで出来たスポーツ用に義足だった。

 ブレードと呼ばれる板バネ状の構造から、有名SF映画の主人公になぞらえて、いつの頃からか誰かがそうあだ名した。


「イチャイチャしているところ悪いんだが、そろそろいいかね?」


 アロハシャツの男は噛みタバコをくちゃくちゃとやりながら、ふたりの会話に割り込んできた。


「オッズは7対1で白いダンナ、あんたの優勢だ。今日勝てば、途上国の代表枠が手に入る――かもだ。改宗する覚悟があるなら、口をきいてやる」


「ああ」


「”デッカード”おまえさんはいつもの額でいいんだな」


「……」


「オーケーオーケー。レースに集中させろってか。そう睨むなよ」


 ランナーのふたりはスタート位置についた。

 コンクリートの地面に固定されたスターティングブロックの微調整を終えて、レース開始の合図を待つ。


「オンユアマークス、セット――」


 緊張の一瞬。

 ふたりは前傾姿勢のままその時に備えた。


 ゴー!


 フライングを計測する装置もない、あるのはお互いのプライドだけ。

 第三者から不正があったと指摘された時点で、競技への参加資格を失う。

 シンプルだ。

 ただおのれの脚力だけをたのんで、隣に立つ走者を倒す。


 ドンっと。

 スタブロを蹴り飛ばす音がしたかと思うと、ふたりのランナーは100メートル先にあるゴールに向かって走り出した。


 上空からはジャンキーたちの罵声が飛び交い、色とりどりのサーチライトがぐるぐると回る。ただでさえマリファナの匂いで気分が悪いところに追い打ちをかけるサイケデリックな光景だ。

 ランナーは競争相手よりもまず、この状況に勝たねばならなかった。


 スタートダッシュは両者ともに成功。

 しかしストライドの差で、白人の男が先行している。”デッカード”の走りもけして悪くはないのだが、いかんせん義足のハンデが彼女の加速を削っている。


 勝ったな――。


 油断するのも無理はないだろう。

 白人の男は50メートル付近で一瞬だけ顔を横にして、少女をみやる。

 高速で駆け抜けるランナーたちだけの空間。

 刹那のときのなかで彼は舌なめずりをした。


「なっ、い、いないっ――」


 たしかに自分の後ろにいたはずの義足の少女。

 彼女の姿が、彼の視界から消えていた。

 まさかと思い、真っ直ぐにまえを見直したときにはすでに勝負は決していた。


 カーボンブレードのしなりを活かした彼女の走法はトップスピードへと達し、ぐんぐんと白人の男を置き去りにしている。


 油断から肺にためていた空気を外に漏らしてしまい、彼の体内にはもう全力で走り切る酸素が残っていなかった。


 終わってみれば、少女がフィニッシュラインにつく頃には大差がついていた。

 白人の男は全身に虚脱を抱え、汗まみれでうな垂れている。


 一方少女は表情ひとつ変えずに、アロハシャツの男に賞金をせびっていた。

 両手に抱えたしわしわの札束を数えながら、路地裏の競技場をあとにしようかとしたときである。


「ちょ、ちょっとあんた」


 負けた白人の男が声を掛けた。

 少女は「なによ?」と一言だけ発し、ジトっとした三白眼を彼に寄越す。


「いや、なんだ、あんたの実力なら、どこだって引く手あまただろう。なんだってこんな非合法の賭けレースなんかやってんだ? おれが言うのもおかしな話だが、今からだって遅くない、表舞台を目指しちゃどうだ」


 すると少女は悲しそうな顔をして、それきり口も利かずにどこかへと行ってしまった。白人の男は持て余した感情をその手に託して伸ばそうとするが、それをアロハシャツの男に止められてしまう。


「野暮はよしなよ、白いダンナ」


「し、しかし――」


「しかしもカカシもねえぜ。スポーツってな生活に余裕があるヤツのもんなんだ。あんただってそうだろ? だがあいつは――”デッカード”は家族を食わすためにも、走りつづけなくちゃならねえ。待ってられねえのさ、やるかどうかも分からないオリンピックなんぞよ」


「そんなに生活が苦しいのか……」


「ああ。だがそんなヤツ、世界にはごまんといるぜ。スポーツ選手なんざ、平常時にはちやほやされるが、基本的には潰しがきかねえ。このご時世、そんな奴らに誰が投資するんだよ」


「……」


「さ、おまえさんもこのギャラ持って、さっさと消えちまいな」


 ただでさえレースに負けて落ち込んでいるところ、さらなる追い打ちを掛けられた白人の男。その表情には何とも言えない悲壮感が漂っていた。


 しかし次の瞬間、そんな暗い状況を一変するかのように、どこか陽気なBGMが流れた。

 そして――。


「そんなとき!」


「はあ?」


 いなくなったはずの義足の少女が笑顔で現れて、白人の男の肩を抱いた。


「スポーツ共済保険はいかがですか?」


 ほぼ同時に反対側の肩をアロハシャツの男が抱き、やはり暑苦しい笑顔で白人の男に向かってそう言った。


「事故や災害が原因でスポーツが続けられなくなったとき!」


「わが社の保険に加入していれば、安心です!」


「え? え? え?」


「明日の未来のスポーツのために!」


「デッカード・ファイナンスは2023年東京オリンピック、パラリンピックを応援しています!」


 ここでBGMが大きくなり、白人の男は笑顔になる。


「やったね! ぼくも入ります! いい保険です!」





「――以上の内容で、つぎのCMを作りたいんですが」


「できるか!」


「ですよねー」


 深夜二時。

 終わらないズームでの企画会議にほぼやけくそになった社員がふたり。


 2023年。

 時代のうねりはいまだ人々を苦しめていた。


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ブレードランナー 真野てん @heberex

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