駆け込み乗車
かなぶん
駆け込み乗車
「
何度か名前を呼ばれ、控えめに肩を揺すられる。
「んー……あれ? 私、もしかして寝てた?」
もしかしても何も、カウンターに突っ伏していた顔を上げたのだから、間違いなく寝ていただろうに、そんな寝惚けたことを言った有谷
続けて自分のスマホを見て、ぎょっと目を剥く。
「やっば、もうすぐ終電じゃない!」
「だから何度も呼んだのに」
男――馴染みのバーのマスターは、帰り支度を始める早百合に苦笑する。
「ごめんなさい、今お金を」
「いいっていいって。次来た時に払ってくれたら。それよりも、ほら、明日は休みで、家でやることいっぱいなんでしょう?」
「ううっ、あ、ありがとうございます! 次来た時は必ず!」
言いながら駆け出す早百合の背に、「今度はお酒頼んでねー」とかかる声。
そういえば常連だからとカウンターに陣取ったくせに、今日はほとんど何も頼んでいなかったことに気づく。
どうりで寝起きでも走りやすい訳だ。
ここのところ忙しかった早百合。
家事のほとんどを後回しにして、その分を仕事に回してきた疲労度は、自分で思うよりも蓄積されていたらしい。
まさか、酒も呑まずに寝てしまうとは。
(もうっ! こんなことなら、さっさと帰って寝れば良かった!)
仕事明け、久しぶりに自分を甘やかそうと思ったのが間違いだった。
尽きない後悔を抱えながらも、通い慣れた道を必死に走り抜ける。
この状況下、一点でも良い面を見つけるなら、ヒールの低い靴とズボンをチョイスしていたことぐらい。
ほぼデスクワーク、ほとんど運動らしい運動をして来なかった身体にとって、急な全速力はキツいことこの上ない。
しかも、まだ肌寒い三月である。
あがる息が冷たい風を肺に送り、火照った分だけ乾くような気さえする。
それでもどうにか間に合い、よろけながらも電車に乗った。
息も切れ切れに、がらんとした座席の一つに腰かけて、目を瞑り、ため息一つ。
(…………れ?)
次の瞬間、早百合の視界は横に倒れていた。
等間隔に身体ごと響く音は、電車が動いていることを伝える。
まさか、誰も乗っていない、見ていないことを良いことに、あのまままた眠ってしまったのか?
そう思った矢先、するりと左側の頭から肩にかけてが撫でられる。
いや、正確には髪だ。早百合の長い髪を撫でられているのだ。
確か一纏めにしていたはずの髪。
それをゆっくり等間隔に撫でる手。
けれど、不思議にも警戒する気にはなれず、横倒しになったままの早百合は身を起こそうともせず、この状況を考える。
顔と共に横へ倒れた身体。しかし、ただ倒れるにしては首の位置がおかしい。
頬に当たるのも、座席のシートではない、硬くも少し柔らかいモノ。
(もしかして……膝枕?)
撫でる手の動きも加えれば、何者かに膝枕されている自分の姿が浮かんだ。
察しが悪いのは、男にしろ女にしろ、膝枕なぞされた憶えがないため。
つまり、膝枕だけでは相手の性別も分からないということなのだが、撫でる手の大きさが女よりも大きい気がして、早百合は膝枕の主を男と仮定した。
それなら余計、訳の分からない状況下、身を起こすなり何なりしようとするはずだが、心地よい撫で加減は何故か離れがたい。
(というか、なんか懐かしい……?)
膝枕はもちろんのこと、こんな風に撫でられた憶えもないはずだが。
それとも忘れているだけなのだろうかと、他に情報はないか視線を巡らせた早百合は、更におかしなことに気づいた。
空が、明るい。
瞬きの間で夜明けを迎えた――――
過れば膝枕や撫でる手を差し置いて、サーッと血の気が引いていく。
これから陽を迎え、あるいは送るような、その絶妙な明るさ。
せめて迎える方で。
そんなことを思う早百合の目に、自分の姿が映った。
想像通り、膝枕をされ、ゆっくりと撫でられている自分…………。
ガラスに映った姿だと気づくのに時間はさほど要せず、続けざま、早百合はこのまま上を辿れば相手を確認できると気づいた。
一体、どんなヤツなのか。
身体を起こせばすぐにでも分かるところを、わざわざ空に透けて見にくいガラス越しで相手を確かめようとする。
だが、やはりというべきか、明るい背景では上手く像を結べず、早百合は代わりに一つ、過去を思い出した。
あれは、そう、この空にもある夕焼けの頃。
当時、早百合は高校生で、そしてその日――彼氏にフラれてしまった。
それだけでも精神的に参っているのに、担任から雑用を頼まれ、泣く暇もない。
ようやく解放されたのが、あの夕焼けの中で、とにもかくにも駆け出した。
ほとんど衝動的に走ったのは、帰りの電車の出発時刻だったから。
数分待てば、また同じ方向へ行く電車が来るにも関わらず、これ以上逃してなるものかと走って走って走り抜き、今日と同じく間に合って――――
「あ」
思わず声が出た。
思い出したことがあったのだ。
これに併せ、ピタリと止まった撫でる手に、今度こそギクリと身体が強張った。
(そうよ、そう。私は知っている。この手の持ち主を……)
あの青春真っ盛りの、あの瞬間に、早百合は確かに遭っていた。
機械的な動きで起き上がり、やはり機械的な動きでソレを見る。
初春でも、初夏でも変わらない灰色のスーツを着た、鼻の下までは人間のソレ。
鼻より上には、人の生きた瞼と動く目が無数にある、ソレ。
ヒクッと早百合の喉が鳴れば、電車が止まり、ドアが開く。
早百合と交わすモノもあれば、てんで違う方を向く目もあるソレは、一つしかない口を開いて言った。
「おかえり」
不気味とだけ響くその音に促されるように、ぎこちない動きで早百合は電車を降りた。
途端、冷たい夜気が早百合の頬を撫で、振り向けば先ほどまで早百合とソレ以外いなかったはずの電車には、ちらほら他の人影。
目の前でドアが閉まり、運ばれていく彼らを見送る早百合は、明るさの欠片もない、けれど終電が通った駅としては何もおかしくない、夜の中で更に思い出す。
中学の時、遅刻寸前で乗り込んだ電車。
そこにいた、帽子を深く被り俯く存在を――――
いや、その時だけではない。
一つ思い出せば、ずるずると記憶の折々に現われる、ソレ。
これで何度目の遭遇なのか。
答えは出ず、しかし、これだけは分かった。
思い出したソレは、早百合が歳を重ねる度、出遭いを重ねる度、彼女に近づいていると。そして――――
(きっと、次に遭う時が…………最後になる)
ゾクリとざわめく肌が何に由来するものかは分からないが。
しばらく、駆け込み乗車は止めよう。
夜闇に消えていく電車を目で追いながら、早百合はそう、心に誓った。
駆け込み乗車 かなぶん @kana_bunbun
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