惚れたがゆえの敗者

田村サブロウ

掌編小説

雪原と化した公園にて、一人の若い男が歩いていた。


待ち合わせ場所に向かうために、吹き荒れる風の冷たさを我慢しながら。


公園の中央にある雪まみれになった噴水。そのそばにたどり着いたところで、男は足を止めた。


ポケットの中からバッジらしきものを取り出し、手でいじりながら時間をつぶす。


およそ5分後。男が来た方角とは反対方向から、こんどは女がやってきた。


若い女だ。それも美人。


マフラーで口元を隠し、あたたかいコートでボディラインはわかりづらい。それでも、彼女のまなざしはどこか艶美な空気をただよわせていた。


「来ないかと、思った」


遠慮がちな声で、女が会話の口火を切る。


「約束だったからな。一緒に逃げるって」


男は優しくしようと努力した声色で答える。


「最後に確認するけど。本当にいいの?」


「なにがだ?」


「わたしで、いいの?」


自信なさげな、しかし艶やかさもある女のまなざし。


それを男はまっすぐに受け止め、答える。


「君がいい。オレは、君がいいんだ」


「……すごく、嬉しい。嬉しい!」


女は男に飛びつき、首の後ろに左手を回す。


唇を重ねる。服越しに互いの体が押し付けられる。


5秒にも満たないほどに短く、それでも熱い時間のあと、女はなごり惜しげに体を離した。


「初めて、キス、したね」


いたずらっぽく、それでいて切ない笑顔を女は浮かべた。




その女の笑顔が、次の男の発言で凍りついた。


「右手を開け」


「え?」


「抱きついた時に、オレから右手で盗んだものがあるだろう? 右手を開け」


女は笑顔のまま、感情が凍っていた。


彼女の右手はグーだ。握っている。なにかが手に入っている。


「な、なにを言ってるの?」


「お前がこのメモリーチップのためにオレに近づいたことはわかっている。オレは重要なブツをもっとも身近な場所に、すなわち自分自身で持っておく主義だからな」


「言ってる意味が、わからないよ。一体、なんで」


「すでに知ってるかもしれんが、お前の持つそれは軍事機密だ。他国のスパイであるお前がおいそれと握っていいものじゃない」


男の淡々とした言葉に、女の笑顔が溶けていく。


瞳に絶望の色が浮かんでいく。


「わたしは……わたしは、スパイだけど。それでも、本当にあなたのことが」


「オレがお前の望み通りの人物じゃないことは、もうわかってるだろう」


「ッ!」


女は厚着の中からなにかを取り出そうとした。


厚着の中から銃の握り手がちらと見えた。


だが、女の抵抗はそれで終わり。


直後、なんの脈絡もなく女は倒れてしまう。


「な、なんで。体が、動かない?」


「あらかじめ狙撃手を待機させておいた。こうなることは自明だったかな」


「狙撃……!?」


「弱めの麻酔弾だ。5分ほど痺れるだけだ、死にはしない」


男は女が落としたチップを回収すると、女を放置して歩きだした。


「じゃあな、未熟者。殺す価値がなくておめでとう」


最後に男は独り言を残す。


一瞬、女が悔しげに息を呑んだような気がしたが、気のせいということにして男は去っていく。


なぜ男が女を未熟者と呼んだのか?


それは男が軍事機密を握っていること自体がウソ情報であることに、女は最後まで気づく様子を見せなかったからだ。恋に溺れすぎだ。


まぁ、それを伝えるようなヤボな真似は、男はしなかったが。

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惚れたがゆえの敗者 田村サブロウ @Shuchan_KKYM

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