Re:山月記

三衣 千月

Re:山月記

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」


 おれが虎になってから、その名を呼んでくれたものはなかった。嗚呼、己をまだそう呼んでくれるか。

 虎と変じたこの姿を、おめおめと見せる訳にはいかぬ。しかして抑え難き郷愁の念。久闊已む無くただ獣として野に垂れる己が、今更出ていけよう義理もない。


 今となっては全てが遅かったのだと分かる。妄執に囚われ全てを蔑視した男の成れの果てに己がいることが、何よりも深く理解できる。


「どうして、おめおめと故人ともの前に姿をさらせようか」


早朝の未だ薄暗き草叢の中で、己はさめざめと落涙しながら友、袁傪の嶺南へ往くを送った。

 浅ましくもこの身を詩に残してしまったが、人として消え往く己の最後の句だ。どうか、どうか赦してほしい。


 すべては、己のせいだった。

 肥大化した自尊心が全てを蝕み、挙句、なにもかも失った。人の尊厳さえも。


 友が去ったことを気取り、しばらく時間を開けてから草叢から出る。

 そこには、見た事もない白磁の小瓶と、一片の手紙が置いてあった。

 

 友の、袁傪の字だろう。

 紙片に曰く、これを飲めばその個人の最も後悔した過去を一度だけ変えられるという。ひょんなことでこれを手に入れ、帝への献上品とするつもりであったが、己に使って欲しいと記してあった。


「……そうか」


 その奇妙な文面が、友なりの気遣いであることは容易に察せられた。過去を変えるだなどと莫迦ばかなことがあるものか。

 おそらく、毒か何かであろう。せめて、今生で叶えたかったことを夢想しながら野に果てろと、そう言うのだろう。夢の中で生を終える自由が、人としての最後の自由が、己にはまだあるのだ。有難い。


 丘の向こうまでたどり着いた友の一行に向けて、その身を晒した。

 しかと見よ、これが肥大した羞恥心と臆病なる自尊心に喰われ落ちた男の姿だ。


 友はどのような顔で己を見たのだろう。一行の小さき影しか認められなかったが、己は吠えた。

 陽が次第に登りはじめ、白んだ月は褪せた陶器のようにくすんだ色をしていた。


 小瓶を噛み砕き、どろりと喉へ流れる霊薬に喉が灼ける。

 たまらず草叢へと駆け戻り、虎の体は水を求めて走り回った。




◯   ◯   ◯




 虎は、虎である李徴は、いかほど走っただろう。

 彼が端と意識を取り戻した時には、すでに灼けるような痛みも、餓えも渇きもなく非常に冴えた心持ちだった。


 自らが虎の姿であることに変わりは無かった。

 陽はとうに真上にある。四つ足で歩くにつけ、虎は森の姿にどこか懐かしいものを感じた。


 虎は、虢州の森にいたのだ。

 それは、虎に変じる前の李徴の故郷だった。


 先刻、友と別れを済ませた商州の森からはあまりに離れすぎている。

 自身が故郷の森にいると気がついた刹那、虎は理解した。それは理屈ではなく、直観によるものだった。


「己は、過去に戻ったのだ。ここは、かつての故郷だ」


 同時に湧き上がる激情。

 事の起こりは、全て自己の為した業によるものだ。全ての因は若き李徴の不徳にある。


「己は、己を許しておけぬ」


 牙を剥き出し、虎は低く唸った。

 虎は、激怒した。必ず、かの邪知暴虐であったかつての李徴を喰い裂かねばならぬと決意した。


 同時に、人としての理性を保つ時間が残り僅かであることも介することができた。陽の高さからするに、刻限は日没。日没には、人としての思考も何もかも亡くし、ただ一介の虎になるだろう。

 無差別に人を襲い喰らう暴虎になる訳にいかぬ。日没までに、李徴を喰い裂かねばならぬ。


 虎は四肢に力を込め白昼堂々、風の如く森から踊り出た。

 兎や鹿に目もくれず野を駆け、どうどうと流れる川の流れに直面すれば躊躇なく激流に飛び込んだ。


 流れを掻き分け対岸に辿りつき、大きな胴震いひとつして水をはじく。故郷の村目指して、陽に照らされながら一心に走った。

 やがて村の近くまで来たという段になって、街道の先に狩人の集団がいた。彼らは虎を目視するや否や慌てて四方八方に散る中で、勇あるものが一人弓を引いた。真っ直ぐ空を裂いたそれは虎の右目を射抜く。


 不思議と、痛みは無かった。しかし、自らの意識が少し薄れてきているのを感じた。ただ自らの中にある最後の正義のみが虎を動かしていた。


 狼狽する狩人の横を抜け、なおも虎は疾く駆ける。


 ――己は、走るのだ。己を殺すために走るのだ。そのためだけに走るのだ。


 村に入るころには陽は傾いで、地平に今にも沈まんとしているところだった。もはや虎の中に理路整然とした思考は残っておらず、ただ李徴を喰らうことだけが心身を全て占めていた。


 ぽたり、ぽたりと眼窩から突き出た矢から滴る血は、その間隔を狭くしていく。息荒く、獣の息を吐きながら虎は村に辿り着いた。


 村は騒然とした。

 人々は皆急ぎ家屋に隠れ、口々に


「虎だ!」

「虎が出たぞ! 刑吏を呼べ!」


 と騒ぎ立てる。虎には、それが風の音であるのか雑踏であるのかさえ判ずることができずにいた。村は恐怖に打ち震え、虎は独り駆けた。


 記憶を頼りに家に辿りつき、「出てこい、李徴よ、珠の皮を被った俗物よ。己が喰らい殺してやる」と吼えた。

 日中疾駆したその身は創痍しており、声は掠れていた。


 ややもすると、か細い女性の声が戸の向こうから聞こえる。


「あの人は、おりませぬ。あの人は、江西の地へと公用に赴きました」


 冷や水浴びせられたように、虎は総身の毛を震わせた。

 戸の奥からは、子の泣く音がする。


 遅かった。

 かつて、李徴は江西へ向かう途中の、汝水のほとりに至った際に夜闇に駆け出して虎へと変じたのだ。時すでに遅し。陽は沈み、色濃い紫の布が東の地平から広がっていた。

 何のためにここまで駆けたというのだろう。


「己は、どこまでいっても何事をも成せぬ身か……」


 身はくずおれ、尾は力なく垂れる。

 人としての意識が急速に遠のいていくのが感ぜられる。しかして、満身創痍の身なれば、人を喰らう力など残ってはいないだろう。

 ただ絶望の内に、暗く落ちるのみである。


「あな、た……?」


 戸が、きぃ、と開く。

 妻であったその女性は怖れも忘れて力なく地に伏せる虎に駆け寄った。


 霞みゆく意識の中で、虎は静かに言葉を紡ぐ。


「己は、虎である。生を空費し、何事をも成すことのできなかった愚かな虎だ。己はもうすぐ息絶えるだろう」


 右目に刺さった矢を抜こうと妻が手をかけるが、虎はそれを固辞した。


「己の身を剥ぎ、毛皮を売って生活の足しにして欲しい」

「そのようなことが、できようものでしょうか」


 妻の目には、涙が浮かんでいる。なぜだかは彼女には分からなかったが、この虎は夫、李徴であると半ば確信していた。


「よい。何事も成せず、何事をも残せなかった己が遺せるものは、それくらいしかないのだ」


 虎の息が浅く、小さくなっていく。

 妻の頷きと共に、零れた涙がぽたりと毛皮を濡らす。


「無事な片方の目は霊薬になる。願わくば、陳郡の袁傪に譲り渡して欲しい。己の、唯一の友だ」

「はい……はい……」


 ほとんど掠れるような声で、虎は言った。


「最期に、我が子の……顔を、見せ、てくれまいか……。戸の、奥からで良い……怖がらせてはいけないから」


 妻は振り切るように家に入り、子を抱きかかえて戸から顔を覗かせる。


 虎は、既に息を引き取っていた。




   ○   ○   ○




 州の役人の記録には、狩人に弓引かれた手負いの虎が一匹、民家の前で力尽きたとだけ残されている。

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