駆け抜けた記憶
浅羽 信幸
駆け抜けた記憶
捕手が逸らすようなボールじゃないのを確認し、二塁ベースに滑り込んだ。思い出代打のデブが三振になったが、あんな奴は知らん。打席の無駄、自動アウト、負けに向かうだけの愚行だ。
ショートがピッチャーにボールを返したのを見届けてから、外野を見回す。
レフトは深め。センターは定位置、ライトは浅い。前の打席の大ファールが効いているのだろう。レフト、センターならばホームをつける。ライトは、微妙なラインか。
無理矢理左膝から意識を外すように一塁ベンチを見れば、タイムがかかった。
ベンチに動きは無いので誰の靴紐かと思っていたのだが、三塁コーチャーズボックスからキャプテンが駆けてくる。
「代走?」
冗談めかして笑いかけた。
部内で一番足が速いのは僕だ。それに、キャプテンは五回に代打として出ている。
「違えよ。そんなわけねえだろ」
「そだな」
三塁コーチャーが二塁ランナーに話すためにタイムを取るなんて言うのは、見たことが無い。正確なルールで大丈夫なのかも分からない。まあ、できたってことは大丈夫なのだろうけども。
「足、大丈夫か?」
キャプテンが僕の膝を指さした。
近くに居るショートにはもちろん聞こえているだろう。
「駄目な奴にセンター守らせる?」
「左膝縫って運動禁止期間中の奴が滑り込むかよ」
違いない。
「まあ、中で一回と、皮膚で一回の二回縫ってるから。破れることはないでしょ」
「お前なあ」
「第一そんなこと言ってたら試合に敗れるよ」
「うまいこと言ったつもりか」
「わりかし」
キャプテンがため息を吐いた。
審判の人の目が少しだけ険しくなり、敵チームの人も少しずつ殺気立つようにこちらを見る頻度が高くなっていく。
キャプテンがもう一回息を吐いて、スパイクで地面をかっちゃいた。
からからと砂粒が金属に当たる音がする。
「回していいか?」
ショートの顔がこちらに完全に向いた。すぐに、そっぽを向き始める。
「回さなかったら負けるよ」
「酷いな」
一瞬前の空気だけが谷間で、また試合の喧騒の中に戻った。
「打順はこっから七、八、九。監督は思い出代打を始めて、先週まではグリーンライトとはいえ、僕がサインにない盗塁をしたのに何も言わないんだからさ。負けてるよ。ベンチは」
「運動禁止中な上に昨日漸く練習に復帰した奴にグリーンライトなんて認めるかよ」
「走れるってアピールしないと、コウスケが責任感じるでしょ。まだ一年なのに」
互いに声を掛けた上での交錯プレーだ。
褒められたものではないし責められるべきだが、コウスケのスパイクが僕の膝に思いっきり刺さったことを気に病んでいるらしい。練習試合でコウスケはその後すぐに退いたのに僕は出続けたことも、また。
「呪いを残したいわけじゃないんだからさ。負けるのは、僕らの実力不足ってアピールしないと」
「僕らってかお前以外の三年だよな。きちんとレギュラー取れていれば、こんな展開にはならなかったのに」
何とはなしに、スコアボードに目が行った。
得点における『0』以外の数字は一回裏の『1』のみ。チームのヒット三本の内、二本は僕。みんなはどんだけ緊張してるんだよ。
「そろそろ戻った方が良いんじゃない?」
時間制限はないとは思うけど、あまり長いタイムは頂けない。
いや、正確には規約であるのかも知れないけれど、意識したことはない。タイム中に話すのも、キャッチャーをやっていたとき以外では初めてだし。
「そだな」
キャプテンがスパイクでもう一度砂を弾いた。
それから、僕の方を見る。
「そうだ。『負けるのは僕たちの実力不足』って言ってたが、負けているのはベンチの雰囲気であって試合には負けてない。勝つのは、俺たちだ」
キャプテンが力強く言い切ると、コーチャーズボックスに小走りで去って行った。
「こりゃ失礼」
これじゃあデブの登場でヤル気がそがれた、自暴自棄の盗塁になっちまうもんな。
威張ることしかしないアイツとさっさと別れられるなら負けてもいいが、と言う思いが強くなってしまったせいか。
これは、いけない。
負ける気はないのだから。勝ちたいのだから。
まだまだ負けるわけにはいかない。嫌いな奴も居るが、おおむね野球部は好きだ。
緊張した面持ちで、第一打席で内野安打を打っているタケが打席に入る。
そうだな。シチュエーションとしては最高じゃないか。
最終回七回の表。同点のランナーは二塁。副キャプテン。打席には同じく三年生で親友で二人だけの三年生スタメンで彼女も親友同士のタケ。
腕を回すのは、ランナーを走らせるのはキャプテン。
こういう時、ドラマなら最低でも一度は追いつける展開だ。
そしてこれはドラマじゃないから、僕らが勝ち越して二回戦に進む。
ピッチャーが、マウンドから投げ下ろした。
一球目がボールで、二球目も浮く。
打者有利だけど、打順は当たっていない八番に初打席になる九番。あるいは、代打。
僕が捕手なら、四球でもよしとしたリードを執る。
再度、外野の位置を確認した。
変わらずにレフトは深いままだが、センターがやや前に、ライトも浅め。バックホーム体制でありながらも何が何でも一点を守る姿勢ではない。長打でピンチが続くことを恐れている。
あるいは、その程度の前進で刺せると思っているのか。
リードを大きくする。
ショートが後ろでちらちらと動いたが、それだけ。時折砂を蹴って戻るように偽装するが、そんなものは皆がやるから良くわかる。
ピッチャーがちらりと見た。足が上がり、重心が移動する。
第二リードも大きめにとった。ピッチャーの手からボールが離れる。
その軌道が、やけに遅く見えた。
ゆっくりと。ストライクゾーンを外れてタケの顔の高さに。コースはど真ん中だがボール球。
それでもタケのバットは動いた。
何を、と言う意思はない。
バットに当たると、ライト前に落ちると『分かった』。そうなるとゆっくりに見える景色で『理解』した。
その直感に従って、体の向きを変える。あとは走るだけ。
カーン、とボールを叩く音と雑多な喧騒が一塁ベンチの歓喜の声を携えて戻ってきた。
足も普通に動き出す。痛みなんか感じない。走れる。ホームまで、駆け抜けられる。
ライトは背だ。打球は見ない。キャプテンに全て託す。
お前に任せる。
だから、その手を回してくれ。
僕をホームまで走らせてくれ。
そうすれば、必ず。点数をもぎ取って見せるから。
駆け抜けた記憶 浅羽 信幸 @AsabaNobuyukii
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