止まれない男

まきや

第1話



 俺はいま走っている。


 気がついたらこうして腕を振り、大地を蹴っていた。


 周りの景色がぼやけている。時刻は朝か夕方か。視界の先に、ほんのり紅く色づいた空がひろがっていた。


 道の両脇に土手があって、一面に草が生えている。左側の一段低いところに、広い河の流れが見えた。自分の記憶をたぐると、この景色は河川敷に思えた。


 いくら走っても進んでいるように見えないから不思議だ。『ここは何キロ地点です』とか、距離を示す看板でもあればいいのに。


 そんな考えにひたっていると、前方から何者かが近づいてきた。格好を見ると、自分と同じランナーのようだ。


「この先は厳しいですよ。頑張ってください」


 男がすれ違いざまに声をかけてきた。とても爽やかな笑顔だった。熟年ランナーらしく、力強い走りですぐに姿を消した。


 ゴールまでの距離が分からない俺に、ペース配分の事なんて考えられない。でもさっきの男の忠告が、まったくの嘘とも思えなかった。


「少しペース落としてみるか」


 俺は速度を落として走り続ける。


 先程まで気配のなかった背後から、ざっざっという誰かの足音が聞こえた。このリズムはランナーのものだ。みるみる近づいてきて、俺と並走した。

 

「こんにちは! 見かけない方ですね。このコースは初めて?」


 浅めのランニングキャップを被った女性ランナーだった。とても若々しい声で、ウェア越しからでも分かる、引き締まった体をしていた。


「はい。でもちょっと迷ってしまったみたいです。ここがどこか分からなくて」


「案内図を見たらどうですか? この先は初心者には少しきついですよ。折り返すか、途中の公園で休憩することをお薦めします。ではお先に!」


 若いランナーは脚に力をこめると、一気に俺を抜いていった。この道を走る人たちは、皆とても親切だ。俺は優しい気持ちに包まれた。


 喋ったせいで少し喉が乾いてきた。忠告どおり休める場所があれば、少し足を緩めてみようか。


 そんな気分に浸っていた矢先だった。道が右にカーブした先で、俺は変なものを見た。


 左に下った土手の草原くさはらに、先程の女性ランナーの姿があった。立ち止まって、誰かと言い争っているようだ。


 喧嘩の相手は複数いて、背格好はバラバラだ。全員が真っ黒な全身タイツを着ている。この時点でものすごい違和感を覚えた。


 誰かの合図で、黒タイツたちが女性を取り囲んだ。わずかに悲鳴が聞こえたと思いきや、黒タイツたちは女性をお神輿のようにかつぎあげた。そしてそのままどこかへ連れ去っていった。




 俺は走りながら、さっき起こったショッキングな出来事を考えていた。でも納得のいく答えは出なかった。


 ただそれを気にする余裕がなくなってきた。あの熟年ランナーの忠告は正しく、道のコンディションが徐々に厳しくなってきたのだ。


 河川敷のコースとは思えないほど、上下の勾配が激しくなった。河からの向かい風も激しくなってきた。少し前に進むだけで、倍の体力を使った。


 呼吸が激しくなり、額から汗が流れ始めた。限界が近づいているのかもしれない。


「こちらでお休みなさい!」


 呼びかけが聞こえた。顔を上げると、前方にマラソンの給水所のテントが設営されていた。


 その中から一人のおばさんが、手招きして俺を呼んでいた。


「あなた、すごい汗よ。さあ、お水を飲んで。ちょっと椅子に座っていきなさい。栄養価の高いバナナを用意しているから」


 水を一口だけ含み、残りを頭から体にかけた。さすがに腿がパンパンだ。いったん座って休憩しようと、パイプ椅子に近づく。


「ちょっと、何するんだい!」


 中年の女の悲鳴が届いた。どこからか例の真っ黒なタイツ軍団がぞろぞろと現れた。


 やつらは俺を押しのけると、パイプ椅子にどかどかと座り始めた。空席が一気にゼロになった。


 残りの黒タイツたちは、用意されていたバナナやおにぎりを鷲づかみにし、すごい勢いで喰っている。用意された補給食は一瞬でなくなった。


 俺はあっけに取られた。こいつら、どうしても俺を休憩させたくないらしい。


 黒タイツのひとりが俺の方を向いて、手で「早く行け!」という仕草をした。


 こんな奴らに関わらないほうがいい。俺はその場から走って逃げた。




 その後も俺は走り続けた。その頃には『走らさている』気分になっていたが。


 先に進むたびに、さまざまな事件が起こった。


 ある時は、道にお腹の大きな女が倒れていた。産気づいているようで「助けて……」と懇願しながら、必死に手を伸ばしてくる。


「ワンワンワンワン!!」


 婦人を助け起こそうとすると、背後から犬を連れた黒タイツが走ってきた。よだれを垂らした凶暴な犬種で、そいつは間違いなく俺を狙っていた。


 人助けをしている自分の方が殺されてしまう! 俺はその場を走って逃げ去った。


 これは一例で、なにか事件が起きるたびに、黒タイツが邪魔をした。


 迷子の子供がいれば、黒タイツ姿の警察官が現れて保護する。老人が倒れていれば、黒い救急車がやってきて運び去っていく。


 関わろうとする人たちを徹底的に遠ざけ、俺には「走れ!」「休むな!」と全力でムチをふるう黒い奴ら。そのくせ俺自身には危害を加えないのが不思議だった。




 これまでだいぶ走ってきていたが、時間の経過がやけに遅く感じていた。それでもようやく太陽が川の向こうへと沈もうとうしていた。


「このまま夜も走り続けるのだろうか」


 そんな独り言をつぶやいた時だった。看板が見えた。これまでいちども見た覚えがなかった。


 看板の横を通過する時、そこに書かれている白い文字が見えた。


『ゴールまで、残り五十メートル』


 終わりがあると知らされると、逆に信じられないものだ。だがそれは本当だった。大きなゲートが見える。あれが俺の終着地に違いない。


 体に力が湧いてきた。ラストスパートをかけると、門はぐんぐんと近づいてきた。


「うわ!」


 いきなり速度をあげたせいで、道に落ちていた小石につまづいてしまった。足がついていかず、前のめりに倒れる。


 だがわずかなタイミングと運の良さで、俺は自力で体勢を立て直した。ほっとする俺の耳に、どこかから「ちっ!」という舌打ちの音が聞こえた気がした。


 俺はついにその場所に立った。もうあと一歩でゴールテープに胸が届く距離。邪魔する者は誰もいなかった。


「すばらしい!」


 歓声が響いた。まもなく俺は例の黒タイツの連中に囲まれていた。これまでと、うって変わった歓迎ムードで、全員が祝福の言葉を投げかけてきた。なかには大泣きしている奴までいた。


「おめでとう」


 黒タイツの間をぬって、どこか大会委員長風の男が俺の前に進んだ。


「よく頑張った。素晴らしい走りだったぞ。いままでこの道にチャレンジした連中は、途中に現れるさまざまな誘惑に惑わされ、全員が途中で足を止めてしまった。それはレースの終わりを意味する。それがやつらのやり方だったのだ」


 男は手を取って俺を招いた。


「ここがゴールだ。誘惑を跳ねのけ、真実を受け入れたお前だけがたどり着いた、奇跡の地。これで我々も救われよう」


 男の言葉を契機に、周りの黒タイツたちに変化が訪れた。黒い背中の皮が割れ、殻を脱ぐように次々と中身が現れる。


 白い透明な体をもつ女、燃える赤色の皮膚に包まれた巨大な男。鳥のような羽を持つ者。そのどれもが人を超越した天使のような姿をしていた。


「さあ、行きなさい」


 かつて黒タイツだった彼らに背中を押され、俺は白く光るテープを胸で断ち切った。





「成功です! 免疫細胞に不活性ウィルスが到達しました。これで免疫細胞はウィルスの構造を記憶し、強力な抗体が作られるでしょう! 先生、間違いなく、われわれの作ったワクチンの効果ですよ! やりました!」


 興奮し抱き合って喜ぶ助手たち。その横には、流れ落ちる涙を袖で拭う教授の姿があった。


「『黒い守護神ガーディアン』のおかげだ。この新開発のタンパク質が、不活性ワクチンを守ったのだ。これまでのワクチンなら人体に拒絶されていただろう」


「先生の理論が世界を変える瞬間に立ち会えました……あなたの助手でいられる事を誇りに思います」


「いや、われわれはチームだ。君たちと一緒に走ってこれたからこそ、このワクチンは完成にたどり着いた。またこの仲間で、次のゴールを目指そうじゃないか」


「そうですね……まだ終わりじゃない。私たちはまだ走らないといけません」




(止まれない男    おわり)

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