走る

λμ

走り続ける。

 走る。

 ヒトを含めたあらゆる動物がおこなう単純シンプルな動きだ。

 腕を振り、足を上げ、大地を蹴って重いからだを前に運ぶ。

 単純だ。

 だが、なぜか惹きつけられる。

 直上から陽光が降り注ぐ。

 青々とした芝生を、子どもたちが駆けている。

 五歳か。

 六歳か。

 フォームはめちゃくちゃ。

 足運びも雑。

 回転は遅く力の大部分が無駄になっている。

 だが、笑っている。

 鬼ごっこではなさそうだ。

 追いかけっこでもない。

 距離を決め、並んで走り、勝った負けたで笑っている。

 単純だ。

 僕も昔はそうだったかな、とカケルは思う。

 真っ昼間の公園で徒競走が行われているとは。

 古びた木のベンチは固く、尻が痛む。

 ウィルスのせいでつけなきゃいけないマスクが苦しい。

 スギ花粉のせいで例年通りだ。

 違うのは足だけ。

 右の足首に巻かれたギプスの奥が疼く。

 走りたい。

 走りたい。

 走りたい。

 松葉杖なんて捨て、ギプスなんて剥ぎ、倒れるまで走りたい。

 だから、待つ。

 走るために走らない。

 走りたいから走れない。

 羨ましい。

 無垢な子どもが羨ましい。

 負けても笑ってられる子どもが羨ましい。

 カケルは笑えなくなった。

 悔しいだけだ。

 目の奥が真っ赤に染まる。

 次こそは。

 次こそは。

 次こそは。

 走って、走って、走り続けて、心より先に足が折れた。

 スマートフォンが鳴った。

 一足先に引退した同級生からだった。

 大会も練習もままならないだろうし受験もあるし。

 それが彼の理由だった。

 カケルは電話に出た。

「なに?」

「久々に来てみたらいねーから、どこにいんのかなって」

「公園」

「なんで公園だよ」

 同級生は呆れたように笑った。

「暇してんならどっか遊びに行かね?」

「暇じゃない」

「いや暇だろ。足、折れてんだから」

 呆れたように笑っていた。

「もういいじゃん」

 諭すような口調だった。

「全治二ヶ月だろ?」

「そう」

「リハビリに二ヶ月くらい?」

「多分」

「そんで、大会はあんの?」

「知らないよ」

「あったとして、勝てねーじゃん、カケル」

「次は勝つよ」

「いや無理だろ」

 同級生は自明だとばかりに言った。

「三年間、一回も勝ってねーんだから」

「違うよ」

「なにが」

「一年の最初の大会、予選で勝った」

「決勝で負けたら意味ねーだろ」

 同級生が残酷な現実を言った。

「才能ないよ、カケルは」

「知ってる」

「どんだけ頑張ったって、届きゃしないって」

「知らないよ」

「やらなくたって分かるだろ」

「分からないって」

「もう証明されてんだよ」

「なにが」

「タイムを見れば分かるんだよ」

「なにが分かるんだよ」

「勝てるかどうか」

 カケルは電話を切り、子どもたちに目をやった。

 いつのまにか、かけっこは終わっていた。

 ひとりだけ顔が暗い。

 勝てないと気づいたのだろう。

 走るというのは残酷だ。

 単純ゆえに、できることが限られる。

 生まれた瞬間に才能の有無が決まってしまう。

 身長に、体重に、骨格に、筋肉の付き方に。

 生まれる前に決まっているといっても言いすぎではない。

 なのに、走り出すまで誰も教えてくれなかった。

 走り出しても教えてくれなかった。

 自分で気づくしかなかった。

 楽しさだけじゃ走れなくなった。

 悔しさが足を回した。

 悔しさばかりが募った。

 躰を鍛え、フォームを直し、駆けて、駆けて、駆けた。

 しかし、届かない。

 楽に前にいける奴に嫉妬した。

 次こそは、次こそは、次こそは。

 全力で走り、タイムを測れば、走らなくても分かる。

 本当にそうだろうかとカケルは思う。

 走り続けていればいつか。

 一瞬。

 一度だけかもしれなくても。

 スマートフォンが鳴った。

 さっき掛けてきた同級生だった。

 嫉妬の対象。

 楽に前に行ける奴は、カケルより先に走るのをやめた。

「なに?」

 カケルが電話に出ると、同級生は申し訳無さそうに言った。

「悪かった」

「別に怒ってない」

「そんなつもりじゃなかったんだよ」

「知ってる」

「カケルを見てるとなんか」

「かわいそうだって?」

「そういうんじゃないって!」

 声が大きくなった。

 図星だったんだろう。

 カケルはギプスの奥を、折れた足首を見つめた。

「僕は今だって走ってる」

「は?」

 わからないだろうな、とカケルは思う。

 楽に前に行ける奴には分からない。

 走れる奴には分からない。

「意味なんていらない」

「は?」

 意味とか。

 目的とか。

 そんなのはおもりでしかない。

 走れる奴らは、重さに潰され、走れなくなる。

 そんなのに捕まりたくない。

「意味や目的なんかに追いつかれたくない」

「なに言ってんの?」

「僕はずっと走ってる」

 子どもたちが解散した。

 暗い顔をしていた子どもだけが残っていた。

 ずっとスタート地点を見つめていた。

「まだ走れるし、走るよ」

「なんのために」

「聞いてなかったの?」

「なにが」

「意味とか、目的とか、そんなのは置き去るにしてやる」

「バカじゃねーの」

「バカなくらいがちょうどいいんだ」

 カケルは松葉杖を取った。

 子どもがじっとスタート地点を見つめていた。

「本当なら、悔しさにだって追いつかれたくないんだよ」

 言って、すぐに通話を終えた。

 電源も切る。

 走らなくちゃいけない。

 次こそは、次こそは、次こそは――

 絶対に勝つ。

「もっと早く走りたい?」

 カケルは子どもに話しかけた。

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走る λμ @ramdomyu

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